書籍・雑誌

「幸せ」の戦後史

 最寄りの図書館でちょくちょくリクエスト
を出して本を買ってもらっている。小さな町
立図書館の新刊購入に対する月間予算がど
くらいかは知らないが押さえどころの新刊
は入っていて、私の知らなかったようなオッ
と目を惹く著作も混る。割と趣味良く選んで
いるようなのだ。
 でも私が、これは!と思う本で他の利用者
にも読んで欲しいものや少々高額(といって
もせいぜい3000円くらい)のものは遠慮な
くリクエストする。利用し始めた最初の頃、
良い本があったらどんどんリクエストして下
さいね…と司書嬢に言われて調子に乗った。
リクエストしたものは必ず買ってくれる。
 ということで、『「幸せ」の戦後史』(菊地
史彦/トランスビュー)を買ってもらった。
或るサイトで紹介されていて、気になった

からだ。何とも固いタイトルではあるけれど
文章はそれほどでもなく、400ページほどを
一週間で読み終わった。
 第二次大戦後の日本人が社会意識として
生きる目標に何を追い求めてきたのかを、
政治的社会的文化的なアメリカとの関係を
軸に、労働環境や家族環境の変化を対照さ
せながら探ってみようというものだ。
 前半の労働問題の解説部分はもっとサッ
パリ済ませた方が良かったような気がする
が、歌謡曲やら映画や小説、オウム真理教
や永山則夫、東電OL殺人などの事件や世相
を反映させながらの展開は、社会評論という
よりも読み物として楽しめるものだった。
でも意表を突く見解や展開がないのが残念。
しかし著者があまり気に入っていないらし
い村上春樹の「1Q84」をこき下ろす一節
がエピローグに挿み込まれているのが面白い。
 とにかく端的に要約すれば、急激な社会
変化を経つつ「豊かさ」を追うなかで、
「疎外」という歪を蓄積していった我々
日本人にとって、「幸せ」って何なんでし
ょうね?…とポスト311の現在を生きる
読者に問いかけて終わっているという訳だ。
 本文は次のように結ばれている。
「我々は長きにわたる戦後と、そのあとの
時間を検証することで、自身の立つ場所と
向かう先を考え直す時期に立ち至っている。
本書はそのための小さな手がかりである。」
まさにそのままだ。そして今日生まれた赤
ちゃんにも戦後は引きずられていくという
現実だけは厳然とあるということだ。

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ゴドーと田村

ようやく最近になって「田村はまだか」の文庫版が

出た。何年か前に書評を読んで以来気になっていて、

朝倉かすみの著作は何冊か読んでいた。最近着目して

いる作家のひとりで、でもまだ何故か「田村はまだか」

は読んでいなかったので、この連休に読んでみた。

Photo

小学校時代のクラス会の流れでバーに集った5人の

男女の一夜。同窓生である田村を待つうちに40歳の

それぞれの過去と現在。田村とは誰なのか、どんな存

在なのかが次第に明らかになってゆく。

 さすがに朝倉かすみ。私たちはどこから来てどこ

へ向かい、どのように生きるのか…という芸術の根本

命題への問いかけが絶妙な会話とともにスラリと流れ

てゆく。

「ゴドーを待ちながら」は不条理演劇の代表作とさ

れているサミュエル・ベケットの戯曲だが「田村…」

を読みながら、ああ、これは現代日本の「ゴドー…」

なのだなと思った。

 私は「ゴドー…」は不条理というよりも実存主義的

な作だと解釈している…まあ、実存は常に不条理では

あるし、そういう意味で2作は通底していると思う。

というか、なんだか「ゴドー…」の焼き直しじゃない

かと思えて来た。しかも「田村…」のほうは最後には

なんとも救いのある展開になっているので、ブッキッ

シュなアフォリズムに彩られた「ゴドー…」よりも

遥かに心に沁みる。

そう言えば「ゴドー…」のGODOT(このスペルで

ゴドーと長音表記になっているのはどうしてか?

と、いつも思う)はGODのモジリだと言われてい

るけど、その対比で言えば田村は仏か?

この混乱する日本で待たれているのは国民一人一

人の田村なのだろう。田村はまだか…と待ち続けて

いるうちにこの国が沈没してしまうようなことだけ

は起こって欲しくない。

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「きみのかみさま」と"Dear Friend" 2

 長倉洋海の写真集"Dear Friend"を思い出したのだ。
アフガニスタンなど紛争地で撮影された写真で知られる長倉
だが、その対象は一貫している。そこに暮らす人だ。
そして、故マスードを撮ったものも、名も知らない一平卒や
道端で遊ぶ子どもたちを撮ったものも、等しく同じ地平で眺
められているのだということに気づく。
そんなことを思いながら書棚の古本から゛Dear Friend゛を
引っ張り出してみた。副題はー紛争地の子どもたちーとなっ
ていて、1980年から90年にかけてアフリカや中東、アジア
各地で撮られた子どもたちが綴られている。中には北京の路
地裏や釜ヶ崎のものもあって、敢て「紛争地」としたのには
何か意図があってのことなのか…とも勘ぐりたくなる。Dear_friend

いずれにしても、それらの写真には「きみのかみさま」に
通じる視線があるのだ。どの写真にも、その一枚が切り取ら
れた背景が凝縮されていて、あまりにも多くの物語が潜んで
いるのだということが強く感じられる。
何度見ても見飽きる事が無い素晴らしい写真集だ。
そしてどの一枚にも「かみさま」が在る。
残念ながら運動靴に神様は宿らない。
 前にも言ったように何もしないよりは遥かに意義があるが、
やっぱり始めにやるべきことは運動靴のプレゼントじゃない
なあ、と思う。その前に、元マラソンランナーには一緒に裸
足で走って欲しかった。
「きみのかみさま」の最後のページには、こう記されている。
 ちいさなキスをおくります。
 こんどあったら かえしてね。

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「きみのかみさま」と"Dear Friend"

 年に何回かスワヒリ語の翻訳という仕事がある。
テレビ番組の取材VTRを見ながら、収録された会話や
インタビューなどを翻訳する。字幕スーパーや吹き替え
コメントの原稿の元を作るというもの。
先日、そんな仕事が入った。まだ放送されていないので
詳しくは言えないが、有名な元マラソン選手がチャリテ
ィーでやっている活動の紹介で、使われない運動靴を集
めてアフリカの貧しい子どもたちにプレゼントする話だ。
(といえば分かるか)もう何年か前からやっているので、
ああ、あれね…と気付く人もいるだろう。
貧しい人に手を差し伸べることは悪いことではないが、
これに似たような事を目にする度に、ある種の違和感を
覚えて仕方がないのだった。
 富める者が貧しい者へ手を差し伸べる。有り余る物資
を足りない所へ回す。それはスワヒリ語の諺に言う「水
は高い所から低い所に流れる」の理念にも合っている。
ただどうも、その富める者の視線が何とも嫌なのだ。
決して上から目線ではなくても違和感を拭えない。
単純に可哀想だとかいうものと違う思いを持っていると
いうことも分かる。ただただ善意でやっているのだとい
うことも分かる。でもそこには、驕れる先進国人である
自分達の贖罪に似たような感情と同時に、与えられた側
に、嬉しいでしょう、有り難いと思うでしょう、と感謝
されることを期待するような、ある種の自己満足も感じ
られてしょうがない。本人が、そうと意識しないにして
も、どうしても同じ地平に立っているという感じがしな
い。というか、同じ地平に立とうとすればするほど、二
つの世界のギャップばかりが引き立ってしまう。
そんな感じで、この違和感をうまく言葉に出来ないでい
ると、最近出版された一冊の絵本があることを知った。
西原理恵子の「きみのかみさま」(角川書店)だ。
 西原の絵は、これまでちゃんと見たことがなかった。
チラッと眺めたことのある「毎日かあさん」くらいしか
知らないから、よくあるヘタウマの部類だろう…程度に
しか思っていなかった。人となりについては、テレビの
番組になった前夫とのドラマで知った「大変な体験をし
た漫画家」といった浅薄なものだけだ。
「きみのかみさま」は、たまたま目にしたテレビの書籍
紹介で知り、興味を持って本屋で手に取ってみた。
思わず引き込まれて、買わずにはいられなくなった。
恐らく西原が訪れたことのあるアジアの国々で見たで
あろう子どもたちの暮らす姿。
さらりと描いているように見えながら、実に深い!
二つの世界のギャップをあるがままに捉え、「低いほう」
の世界に暮らす子どもの視線で描かれている暮らしの一
こま。また、絵が良いのだ。
人は、何かどこか天の一角からじっと見据えられている
ように感じる時があるものだ。そんなことを、以前私も
自分の暮らしと照らし合わせて記述したことがある。
なるほど、子どもが感じる「かみさま」という視点があ
ったか!
Photo
 特定の宗教ではなくて、呼び方が何であれ「世界全体
と生き物や暮らしを司るなにものか」の存在は、誰もが
どこか心の片隅に持つものだと思う。
それが「きみのかみさま」として描かれている。
西原の描く子どもたちの目が凄い。黒い丸がポンとベタ
で塗られている。そこには微笑みも涙も何もかもを吸い
込むブラックホールのような深さがある。
読みながら、ある写真集との共通点について考えた。

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懐かしいひと〜つげ義春〜

  立川の古い商業ビルのイベントコーナーで古書展が開かれて
いたので立ち寄ってみた。「恒例」とあったので、毎年この時期
に開いているのだろう。平台にずらっと並ぶのは、本当に古書と
呼びたくなるような、変色した書籍の数々。
昭和の匂いふんぷんのビルに相応しい、古本屋の佇まいなのだ。
昨今のブックオフのような、古物リサイクルショップではない。
本という知識の記録メディアが時代を越えた存在感をみせる。
古本は知識と記憶の海だ。
 なかでも目に付いた一冊に思わず手が伸びた。二見書房刊の
サラ文庫・昭和漫画傑作集の一冊。
「懐かしいひと〜つげ義春〜」昭和51年6月30日初版発行で、
売られていたのは同年7月28日に再版されたもの。その何編か
はオリジナルを学生時代に読んでいる。サブカルチャー(当時
はアンダーグラウンド=アングラ、と呼んだ)文化の前線だっ
た漫画雑誌「ガロ」に初出掲載された筈。懐かしい本、なのだ。
薄いセロファン紙で丁寧にカバーが施されているのも、昔なが
らの古本屋の礼儀のようなものだ。今時そんな扱いを示す本好
きは少ない。
Photo
 このIT全盛の時代。電子bookが台頭しようかという時代に、
昭和のアナログ臭にまみれた古書の只中で、懐かしさと安堵感
に浸ってしまう自分がいる。自分は取り残されようとしている
のか?いやいやここにこそIT時代のカウンターカルチャーが在
るのだと言う事が出来るのか?
つげ義春の漫画の主人公に、分断される自分の影が見えるよう
な気がするのだ。

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「散歩もの」

 久しぶりに新宿、紀伊国屋書店に行った。
いつも覗く1Fの隅にあるノンフィクションやエッセイの
コーナー。店員の選択センスが良いのだ。今回も、おう
こんな本があったのか…と目に付いたのが「散歩もの」
原作が知り合いの久住昌之さんで、画は谷口ジローとい
う組み合わせの漫画の文庫本だ。文庫化されたのは200
9年10月だが単行本は2006年刊行。元は季刊の通販生活
という雑誌に2000年から2年間8回に渉って掲載されたの
だという。知らなかった。
 久住さんは以前、アフリカを毎年訪ねる出版業界の人た
ちのグループに参加していたので、私も面識がある。
漫画家、イラストレーターだと思っていたらエッセイでも
あちこちで見かけ、なかなか面白いのだ。漫画の原作も手
がけていたとは知らなかった。ちなみにバンド活動もして
いて、CDも出している多彩な人だ。
 で、「散歩もの」が素晴らしかった。短編小説です。
漫画という表現方法だからこそ可能な、人の暮らしのエッ
センス。裏表紙に“エッセイ風コミック”ってあるけど、風
じゃなくエッセイそのものです。
これに先駆けて同じコンビの「孤独のグルメ」というのも
文庫化されていて、なんと“10万部突破”と帯にPhoto ある。
放送メディアがもたもたしている今、出版界にはこんな良
質の「作品」を生み出す土壌が残っている。
 そういえば最近のテレビドラマや映画の多くが、原作を
コミックに負っているという事実がある。これもまた映像
化されるんじゃないか?そこそこの翻案で形になるだろう。

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「インパラの朝」と開高 健ノンフィクション賞 2

 旅を続けるうちに、著者は悪ぶった行動で難局を切り抜けてい
った。例えば、国境を越えるために同じ国へ向かう旅人と結婚し
たと言う記述がある。でもこれは単にビザを貰うために夫婦です
と自己申告して国境通過のときに行動を共にしただけのことだ。
結婚と呼ぶべきではないし、それこそアフリカでも、この日本に
でもそんな方便以上に、本当に結婚することで人生の転換を図る
具体例は枚挙に暇がない。
さらにもっともっと様々なパターンの生のリアリティ溢れる実話
をいくらでも知っている。著者が何度も結婚とか夫などと記述し
ている様は、なんとも可愛らしいばかりで、そこにはさらに厳し
い生の現実を想像しようとする態度も切迫性も無い。
 南アフリカでのバスターミナルから乗り場への往復のクダリな
ど、まるで途上国初体験のヒヨコのようだ。アメリカで教育を受
けた事があるらしいので、英語は上手いのだろう。多分アメリカ
なまりの英語をまくしたてながら、妙に優しくなったり悪ぶった
りという態度をとる姿が想像出来て微笑ましい。日本人に限らず
似たような人物は私も実際に目にしたことがある。
 著者の旅の終わりはヨーロッパだ。旅の途上で知り合った人た
ち(多分西欧の人たちか)と再会して、自分達の途上国への思い
を確認しあったのだろう。
 やっぱり何か違う。開高健ノンフクション賞に相応しいのだろ
うか?でも受賞作として出版されている。ということで、私はこ
の賞の意義と価値を疑う。開高さんならば、あんな書き方を認め
もしなければ、評価もしないはずだと確信する。
小学館と選考委員たち!今の女性持ち上げの風潮で、あの著作が
売れると考えたのならば、売れないよ。一部のラジオや新聞なん
かで著者のインタビューが行われているが、私が見聞した限りで
は、旅人の英知の感じられない人物だとしか映らなかった。

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「インパラの朝」と開高 健ノンフィクション賞 1

 第7回開高 健ノンフィクション賞受賞作「インパラの朝」を
アメリカ出張の往復を利用して読んでみた。
実は同賞には以前応募したことがあるし、注目は続けている。で
も前回あたりから選考に疑問があった。選考委員に起因するのか
選考基準そのものに起因するのかわからないが、私が信ずる開高
賞に値するものか?と思ってしまう。
開高の洞察とツッコミ、深みと軽さ、広い視野と細部への視点、
そうしたものの片鱗は、開高賞作には欠かせない筈だ。
 さて「インパラの朝」という著作。私には旅の断面と時々の印
象を小間切れにした羅列で、エチュードの域を出ていない。
各章は、そこから語られるべき何かのタネの状態で放り投げられ
ているし、文章はなにやら悪ぶった感じばかりがする。かなり意
識して作った文体のようだが、30代始めの女性の文章としては自
然さに欠け、描かれているその行動と同じく、一人よがりのツッ
パリだなあとしか思えないのだ。
 そして一番気になる点は著者の思考回路だった。サラリと読め
ば旅の始めと終わりでは著者の物の見方が変わっていったかのよ
うに感じるかもしれない。実際そのような記述もある。世界の声
無き人たちの声を聞き、姿を見るために同じ地平に立とうという
のが旅のモチーフで、著者は少しずつ視点を変えていったとされ
ている。でも結局は最初から最後まで、大上段に構えた世界との
対峙の仕方は変わっていないし、彼女の持つ先進国vs途上国、富
者vs貧者といったカテゴライズされた固定観念の図式に変化はな
いのだ。
 私は13年間アフリカに暮らし、恐らくただ日本に暮らし続けて
いたら経験するだろうことの数倍以上の様々な体験を重ねた。
それでも私はいまだに「アフリカとは**だ」とかいう物言いは
出来ない。それほどに世界は多様性があって、私の見聞きしてき
た物事は、アフリカの持つ一部でしかないと思うからだ。

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ジュンパ・ラヒリ、世界文学の方向性

 ピューリツア賞作家ジュンパ・ラヒリの最新短編集がいい。
邦訳は第一短編集「停電の夜に」長編で映画化もされて話題に
なった「その名にちなんで」、次いで出たのが「見知らぬ場所」
だ。カルカッタ出身のベンガル人を両親にもつロンドン生まれの
ラヒリはアメリカ東部で育ち、結婚して今もニューヨークに暮ら
している。その作品はアメリカに暮らすベンガル人移民第一世代
から第ニ世代をとりまく世界を描いていて、出自、民族性、家族
というテーマで一貫している。
ラヒリのテーマは私が求めるテーマと重なる部分が多く、前にこ
のブログで紹介したナイジェリア出身のアディーチェとともに注
目している。二人がいずれも女性で、アメリカに暮らしていると
いうことは偶然ではないような気がする。それは、元々が移民に
よって形成されたとはいえ、当初とはかなり異なる人種構成と社
会背景を持つに至った現在のアメリカあってこそ生まれた文学だ
ということが一点。それぞれの出身文化がアジアのインド、ベン
ガルとアフリカのナイジェリア、イボであるといことが二点目。
さらにこれから子孫を孕み育てる母性を持つ存在であること。
つまりDNAを伝播してゆくメディアだということが三点目だ。
 戦争の世紀と呼ばれる20世紀から、今この21世紀は壊滅か存
続かの境目に来ているのだと思う。もしここに何かの希望を探す
とするなら、そのヒントは彼女達の描く世界のなかにあるような
気がしている。21世紀の世界文学が目指すべき方向性のカギが
あるように感じている。
 戦争、民族性、家族、移民というテーマに関連して、私の拙著
「マッサラーマ・ソマリア」というノンフィクションが、講談社
のノンフィクション誌「G2」のweb版内限定掲載のG3という
コーナーで連載されることになりました。掲載開始は11月上旬の
予定です。はっきりしたら改めてお知らせします。

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犬と鬼 2

 あまりに気力が失せるので、次は「犬と鬼」というタイト
ルについて書いてみる。
中国の「韓非子」に出ている故事から取ったという。
絵に描きにくいのは身近にあって見慣れている筈の犬のよう
な存在で、意外と正確に捉える事が難しい。逆に派手で大げ
さな姿貌をしている想像の産物である鬼は、却って誰にでも
描きやすかったりするものだという事らしい。
ナルホド。そういう視点で日本の戦後を見直したというのが
この評論なのだが、もうひとつ。どこにでも居る犬がいつの
間にか鬼のようになってしまっていたという謂いにもなって
いるようでもあるし、日常の暮らしに直結した施策が犬で、
大げさな形ばかりなハコモノが鬼ということでもある。
そしてこうした「犬と鬼」的な対比の顕在化に「寄与」して
きたのが、官僚による様々な働きとそれを利用し・利用され
続けてきた政治だということだ。
 この著作ではこのような日本の近過去と現状を訴えるだけ
で、ではどうすれば変化が可能かという処方への言及は無い。
その結びの言葉は「家路を探し求めるーこれが今世紀の課題
だ。」となっている。「家路」とは墓場への道か?
はっきりと言って処方なし、ということなのだ。
ガラガラポンのカタストロフという知恵も意欲も不要な他力
本願ではなく、少しでもまともな社会を目指す志だけでも持
ち続けていたいものだ。

 ということで、これからはネガティブな物言いは止める事
にして、ポジティブにいきます。

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