日記・コラム・つぶやき

一神教の母性性と父性性について考えた

  図書館では年に一回程度、貸出し頻度の少ない
書籍をリサイクル図書として処分する。最寄りの
町立図書館でも最近そうした処分があった。
そんな本の中に田口ランディの一冊を見つけた。
「できればムカつかずに生きたい」という、なん
ともキャッチ―ではないタイトルのその本は田口
の数あるエッセイというかコラム集のひとつで、
多分メルマガで発表したものをまとめたのだろう。
2000
年に出版された三刷で、1020日に初版が
出て115日に既に三刷になっているから結構
売れたのだと思う。
 しかしその装丁が読書欲をそそらない。頬づえ
をついている白人少女のバストショットがモノクロ
で真っ直ぐにこちらを見つめている。普段なら私は
そのような装丁の本は手に取る気になれない。田口
の著作は示唆に富み、一時期集中して読んだことの
ある私でもその一冊は敬遠していたが、無料配布と
いうことで持って帰ったのだ。しかし読んでみると
これがまたなかなか重く刺激的なのだった。
 このなかに「私は父性を持ちたい」という一文が
あって、アニメのドラえもんが守り容認し愛を与え
包み続ける母性賛歌であると捉え、日本の社会や政
治、職場環境に蔓延する母性性を指摘。一方で規律
と秩序、厳格な道徳などを規範とするものが父性性
だとしている。
 ナルホドそう言えば思い当たるのが同じ一神教で、
ユダヤ教を元にするキリスト教とイスラム教のこと
だ。ユダヤの神ヤハヴェがゴッドと呼ばれアッラー
と呼ばれてもそれは同じ唯一絶対の神のことである

が、私の知る限りでは規律と法を重んじるイスラム
は父性的であり、曖昧で矛盾が多く律法を廃棄して
愛に置き換え(このあたりは橋爪大三郎と大澤真幸
の対論「ふしぎなキリスト教」を参照)たイエスと
マリアを崇高な存在とするキリスト教は母性性その
ものだと謂える。
 あまりものごとを二つに分けて捉えるような考え
方は好きじゃないけれど、こんな視点で世の中を見
てみるとまた違った世界が開けるものだ。

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私の本棚

本棚を見ればその人物が見えてくる。だか

ら映画やテレビ番組などではブック・コーデ
ィネーターなる者に活躍の場が開けている。
登場人物や場の雰囲気に合う書棚をアレンジ
するのが、その仕事だ。
 最寄りの図書館に行ったら、馴染みの司書

さんから声を掛けられた。11月に図書館フェ
アがあって、その企画で「私の本棚」という
テーマで展示をしたいのだという。ついては
強力してくれないかという依頼だった。しか
し実際の本棚を紹介するのではなく、リンゴ
箱ほどのスペースを用意するので、そこに愛
蔵書をレイアウトして自分なりの本棚を再現
し、それを写真に撮って展示する。
 広く募集したいけれど、誰にも分かるよう

に言葉で説明がし難いので、その雛型となる

例を作りたいらしい。そこで、図書館の常連

何人かに声をかけているのだそうだ。

 で、今日、本を担いで行った。

Photo

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遺伝といえば

 いずれにしても良かれ悪しかれ親から子へ
と受け継がれてゆく要素は必ずあるわけで、
そんなことを考えていると、新聞に芥川賞と
直木賞の候補が発表された。見てみると、そ
のなかに嬉しい名前があった。
 アフリカに行く前、私はテレビ番組の制作
プロダクションにいた。1970年代末から80

年代初めにかけての頃だ。ディレクターとし
て最初に手掛けたのは、その頃ようやく出始
めたミニ番組。夜10時頃、番組と番組の間
に幕間のように放送される3~4分の番組だ
った。
 故・実相寺昭雄監督が企画発案と監修で始
まった「21世紀への手紙~わが子へ~」とい
う番組で、芸能人や文化人、スポーツ選手な
どが、わが子供に宛てメッセージを贈るとい
うもので、親子の日常の或る時を切り取った
映像と短いインタビュー、そして番組のため
に書き下してもらった400字ほどの手紙を朗
読する本人の声で構成し、ちょっとしたドキ
ュメンタリー的な要素も交えた番組だった。
 その一本で作家の宮内勝典さんを取り上げ
たことがある。「南風」で文藝賞を受賞して
デビューした宮内さんは、当時「金色の像」
で芥川賞を逃したものの、同作で野間文芸新
人賞を受賞したばかりの頃。高島平団地の最
上階のお宅を訪ね、近くの公園で2歳になっ
た息子さんとの散歩の様子などを撮影した。
息子の悠介くんは自分で立ち、歩くことで世
界とつながる喜びを謳歌していた。
 朴訥な青年らしさを残す宮内さんの、文学
にだけでなく世界に対面する真摯な姿勢に感
銘を受けた私は、その後も個人的に何度か連
絡させてもらった。やがて私はナイロビへ向
い、偶然にも同じ年に宮内さんはニューヨーク
へと移り住んだ。その数年後にナイロビで私が
息子を得た時、宮内さんにはちょっと感情の
籠った手紙を認めた覚えがある。その辺りは
「地球を抱きしめたい」(新潮文庫)に、アフ
リカを訪れて私と再会したときのエピソード
に描かれている。
 そしてあの息子、悠介君が今、直木賞の
候補作家となっているのだ。すでに35歳。
直木賞候補となるのは二回目だ。
あの父にしてこの子あり。しかして私は…

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血統、遺伝について思う

 我が息子は間もなく30歳になろうかと
いうのだが未だにフラフラしている。
アルバイトは長続きしないし、ちゃんと
した仕事にありついたと思っていたら自
分の都合で辞めてしまったりを繰り返し、
2年ほど前に私が東京を離れるにあたって
パラサイトから脱してようやく一人暮らしを
始めた。
 その頃はIT関係の固い仕事をしていたの
に急に役者になると言いだしてまたも辞職。
アルバイトをしながら舞台俳優のレッスンに
通い、或る芸能プロダクションの世話で時々
はテレビやCMのエキストラやVシネとかの
端役などを回してもらっているらしい。
 考えてみれば私も学生劇団に入って色ん
なことをやった。そしてそれが後の私の仕事
につながり、ひいては今の暮らしの基となっ
ている。現時点でそれは成功という結果を
産んではいないという事実は残念だが…
これは俺の血を引いているのか?なんて
思うこともあるが、同じように育った娘のこと
を考えると血とは何だろうと思ってしまう。
 下の娘は幼少の頃はこの息子と容貌は
よく似ていたが、性格というか人柄はかなり
異なっていた。
ひょうきんで出しゃばりの息子に対して娘は
割と引っ込み思案で大人しかった。
しかし、長じて息子は我儘で好き放題、高校
生になるとグレ始めた。結果は高校を中退し
てアルバイト生活に入り18歳のときには彼女
を孕ませて所謂「デキチャッタ婚」。娘ができ
たが、その後に離婚してしまって現在に至る。
 娘は10歳のときに母親についてアメリカに
行き、誰に言われるまでもなくコツコツと勉強
して優秀な成績で高校を卒業。親に負担を
掛けることなく奨学金で大学に進み医学を学
んだ。しかし奨学金だけでは難しかったらしい。
空軍の奨学制度を得て仕事をしながら大学も
両立させ、来年度で卒業予定だ。しかもこの
春に自分で見つけたパキスタン系カナダ人と
結婚した。夫はテキスタイルの企業を経営す
一家の息子で、大学院を出たインテリだ。
卒業するまで子供を儲けるつもりはないという。
 息子も娘も赤ん坊の頃からベビーシッター
がついてネコ可愛がりに可愛がられた。特に
違う育て方をしたこともないが、私と元妻が
引き継いだもの(血というかDNAというか)
ののなかから二人それぞれが受け継いだ
ものの質なのか配列なのかの違いが、今の
二人の立場をまるで違ったものにしているの
だろう。
 人は生まれながらに性格や運命の筋道が
決まっているのかと考えてしまう。とすれば、
その資質を見出して良いほうに方向付けし、
伸ばしてやることが親の役目なのだなと、
今頃になってようやく分かってきたのだ。

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図書館で

 地元の図書館に詩人の伊藤比呂美さんが
来てトーク会を開いた。去年の春先にも同
じような催しがあって二回目だ。
前回は両親の介護にまつわる話やら、手掛
けているお経の翻訳の話やらをした。
 東京出身の伊藤さんは、最初の結婚後に
夫だった人の仕事の関係で熊本に暮らすよ
うになり、東京から両親を呼んだ。そして
後に離婚した後も熊本に住み続けたのだが、
やがて再婚してアメリカへ移ることになる。
そのとき両親を熊本に置いて(本人の言い
方で)いったのだった。その後母が、そし
て父が介護の必要な状態になるが、親の様
子を見るために毎月のようにアメリカから
通ったという。両親が他界した今も熊本の
家はそのままにアメリカと行ったり来たり
を続けている。
去年も今年も、まあそんな背景を交えなが
98%が中高年女性の聴衆にビンビンと響
くような話をした。
 話の上手な人だ。何気ない話題をマクラ
にグイグイと聴く人を惹きつける。また、
いくつか自作の文章の一部を読んだ。詩人
は朗読が上手い人が多いが、彼女もなかな
かなものだ。気が充実している。

 デビュー当時の若い頃の姿を知っている
が、クリクリした目はそのままにエネルギ
ッシュなオバサマになったという感じで、
話を聞くと何だか元気が出る。
 その会を開いた行きつけの小さな町立図
書館は館長以下女性ばかりの司書たちが
頑張っている。去年7月の大雨の時、すぐ横
を流れる川が氾濫して床上浸水した。3カ
月ほど休館したが、自分たちの手で復旧さ
せた。そして来月、復旧記念のミニコンサ
ートが企画されている。

P

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靴磨きジョセフ 5

 着古したジーパンに履き崩したスニーカーと
ポケットに少額のお金を忍ばせて、前日の雨で
ぬかるんだ斜面を訪ね歩いた。
肌の白い見知らぬ外国人を見て子供たちが「ム
ズング(白人のこと)ムズング」と囃したてる
が、にこやかに手を振って遣り過ごす。相手に
していると人だかりができてしまって困った状
況を生み出してしまうことになるのは、既にあ
ちこちを歩き回って体験していた。初めて足を
踏み込む場所で、それは避けたいことだった。
 簡単な日用雑貨を商う店があったのでジョセ
フのことを訊いてみると、キアンブ出身ならば
あのあたりだなあ…とバラックが密集する斜面
の中腹辺りを指示した。アフリカの相互扶助が
出身地を同じくする者や親族の寄り集まりを産
むが、その典型がスラムに息づいているのだ。
 粘土状の土が靴底に粘着してヌルヌルの斜面
をさらに滑り易くしていた。バラック長屋の間
の、人一人が抜けられるだけの路地を注意深く
下りてゆく。長屋は板壁一枚で繋がりあった四
畳半ほどの広さの箱の連なりで、板戸が開け放
たれた部屋から覗き見える内部は殆どベッドで
占有されていて、家具らしいものは簡単な造り
のスツールとか衣類などを入れておく箱の類く
らいしかない。
 人の姿を認めて「ジャンボ!」と挨拶の言葉
を掛けると身がまえも無しに皆にこやかに返事
をして「寄ってくかい?」「お茶どうだい?」
などと言ってくる。それは反射的に口に出る単
なる外交辞令でもあるが、暇を持て余している
人達にとってはあながち出まかせでもなく、そ
れでは失礼…と踏み込んでも歓迎されても拒否
されるようなことはない。特に同じような境遇
の者たちが肩寄せ合って暮らすその辺りでは皆
無防備なまでにオープンで危険な感じは全く無
いことに気付いた。
 暇そうにラジオを聞いていた男に尋ねてみる
と、案内してくれたジョセフの部屋はすぐ裏手
にあったが、そこに居たのは妹だった。

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靴磨きジョセフ 4

 キベラにはその前に一度行ったことがあった。
ツアーガイドをやっている友人が住む家を訪ね
てみたのだ。スラム地区として知られていると
はいってもバラックばかりが犇めいているわけ
ではない。市の中心街からのバスの終点になっ
ている丘の上の広場周辺にはコンクリート建て
のアパートもあるし公営住宅もある。丘の麓に
ナイロビダムと呼ばれる大きな貯水池があって、
そこへと続く幾つかの谷に不法建築物が拡がっ
ている、まさにその増殖のさ中だった。
 友人が暮らしていたのは市営住宅で、スレー
ト葺きの平屋が4軒づつ連なる長屋だ。日本式
に言えば6畳二間というところか。居間と寝室
に小さなキッチンとトイレ兼シャワー室という
造りの質素なもので、共稼ぎの若い夫婦が明る
い未来を信じて薄給を遣り繰りしながらつまし
く暮らしていた。
 靴磨きジョセフの暮らすキアンダ地区はその
丘の頂点からそれ程離れてはいなかった。バス
の通る一本の舗装道路を外れた急な斜面の一画
で、地面に突き立てた棒杭の柱に荒く削っただ
けの板を打ち付けて造った箱のようなバラック
が取り付いていた。
 所番地などありはしない。そこらの人に「ス
タンダード銀行の前で靴磨きをやってるキアン
ブ出身のジョセフの家はどこだか知らないか?」
と訊いて回るのだ。今考えると我ながら大胆な
行動だった。犯罪の温床と言われるスラムに無
防備にも一人でノコノコ出かけて行くなど、今
のキベラでは出来ることではない。

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靴磨きジョセフ 3

 10分ほどでジョセフが靴を磨き終わり、次は
さて値段の交渉だ。幾らだい?と訊くと、何と
200シリングと吹っ掛けてきた。おいおいそれ
は幾らなんでもボリ過ぎだろう。当時、役所で
働く下級官吏の月給から換算すると一日分の給
料に匹敵する。大笑いすると、奴も悪びれる事
なく一緒になって笑っている。ちょっと口に出
してみただけなのだ。アフリカ人ならではの対
応のし方ではある。
 相場は一回510シリングであることは調べ
がついているのだが、ちょっと奮発してこう切

りだした。―よし、じゃあ今日は50シリング
払ってあげるから後3回はタダでやってくれ―

 こうしてそれから街へ出る度にジョセフの前
に立って話をするようになった。サンダル履き
のことが多かったので靴を磨いて貰うような事
はあまり無かったが、もとよりスワヒリ語の実
践レッスン料のつもりだ。
 そうこうして馴染みになったところで、いよ
いよお宅訪問をやってみることにした。
 ジョセフが暮らすキべラという地区は職を求
めて地方から出てきた人達が出身地や部族ごと
に寄り集まって暮らすスラムの典型で、周囲数
キロのなかに不法建築のバラックが立ち並ぶ。

当時既に数万人の人口を抱えていたが、今では
数十万と言う単位に膨れあがっている。
 広大なキべラのなかで、教えられたキアンダ
と呼ばれる一画を目指した。

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靴磨きジョセフ 2

 キクユ族というのはケニアの中央部、高原地
帯を中心に農耕民として勢力を伸ばし、現在は
国政や商業をリードする人達だ。ケニアの人々
の間ではキクユ商人は吝嗇の代名詞のような扱
い方をされることが多く、商売のためなら法に
背いたり少々荒っぽいやり方でも手段を選ばな
い…と思われている。そうした例は後々耳にし
目にすることになるのだが、とにかく商売人と
して成功している人達の多くがこのキクユの人
達であることは間違いない。
 
さて、タクシーに乗る場合などでもこうした

取引ではまず料金交渉しておくのが通例であり
肝要だということは判っていたが、その時私は
敢て事前に料金交渉をしないまま成り行きに任
せてみる事にした。
 その時履いていたのは赤茶けた土埃にまみれ
たビニール皮革の白いスニーカーだった。まず
は水に濡らしたボロ布で埃を拭いながら「これ
は日本製かね。造りが違うねぇ。ほら、ちょっ

と拭っただけでピカピカだ。」ときた。
 次に「これはね、柔らかくする薬」と、何や
ら薄青い液体の入った小瓶を取り出して降りか
け、その後でワックスを塗って拭きあげていっ
た。所要時間は10分位。その間彼は喋ること
止めることはなく、私の目的であるスワヒリ

会話の練習にはもってこいだった。
 話の中で、彼がナイロビ近郊のキアムブとい
う村の農家出身であること、今はナイロビ最大
級のスラムを擁するキベラ地区に部屋を借りて
妹と同じ村から出てきた妹の友達の女性と3
で暮らしているということが分かった。
 キベラならば私が寮生活を送る地区からさほ
ど遠くは無い。何度か靴を磨いてもらって馴染
みになれば訪ねることも出来ると期待した。

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靴磨きジョセフ 1(アフリカ回顧譚)

 ナイロビに暮らし始めた当初のこと。街と
人に慣れるため、スワヒリ語学校の授業が終
わった午後は毎日あちこち歩くことを日課に
していた。
 
街の中心を走るケニヤッタ大通りのスタン
ダード銀行前の歩道に、何人かの靴磨きが並
んで座って客待ちしている一画があった。
街中でもなければ舗装もままならず、少し歩
き回れば足元は埃まみれになる土地柄だ。い
つもスニーカー履きで靴磨きが必要な革靴な
ど履いて歩くことはなかったが、見ていると
ビニール靴でもスニーカーでもお構いなしに
客に声をかけ、土埃や汚れを拭き取り磨いて
いた。
 そんなわけで、そこを通りかかる度に私に
も声が掛る。ジーンズにTシャツ姿の若造で
ある私でも、外国人である限り小金を持って
いると目論まれ、ケニア人相手よりも料金を
吹っ掛けることができると算段したのだ。
私の方も彼らの暮らしにちょっと興味があっ

たので、或る日の午後、ちょっと厳ついけれ
ど愛嬌のある笑顔の靴磨きの前に埃にまみれ
たスニーカーを突き出してみた。
 ジョセフ・カマウ、28歳という。私よりほ
んの少し年上だが、もう30代半ばくらいには
見える。名前と言葉遣いからケニヤで一番の
口をもつキクユ族であると判った。

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