文化・芸術

美術館での出会い

  坂本善三の生誕100年記念とのことで、地元の2つの

美術館で違った視点での展観をやっているので行ってみ

た。時系列で初期の画業を追う、ということでは見る価

値があるものではあった。

  で、その県立美術館の一室に浜田知明室という一角が

あって、少数の作品を継続的に紹介しているのだという。

不覚にも浜田知明の名は知らなかった。地元出身で大正

6年生まれ。94歳の今も郷里に存命の現代美術作家だ。

Photo

その業績は主にエッチング技法での版画で、棟方志功や

駒井哲郎と並ぶ日本版画界の重要人物だということも知

らなかった。

  展示室に足を踏み入れてみると10点ほどのエッチン

作品のほかにブロンズの彫刻作が並んでいた。どれも

さなものだ。しかし、その不安を潜めたモノクロの世

に引き込まれてしまった。アフリカン・アートにも通

るデフォルメされたフォルム。ダリを思わせる象徴性

秘めた図象と説話性を帯びた作品名。

この2011年の今、観る私たちに深く突き刺さるものが

ある。

やっぱり外には出てゆくものだ。こうした出会いも地

方に来た恩恵のひとつなのだろう。

その後で寄った現代美術館ロビーのフライヤーから気に

なるものを幾つかピックアップする。

九州アートゲートというプロジェクトが博多で展開され

ているらしい。これはちょっと見てみたい。

九州のアートシーンは意外と熱いようだ!

Photo_2

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3331 Arts Chiyodaと秋葉原

 日比野克彦の個展“ひとはなぜ絵を描くのか?”を観に3331
Arts Chiyodaという所に行ってみた。
3331arts_chiyoda

そんな場所があるなんて知らなかったが、廃校になった中学校
を改装してアートスペースとして運営されている。ギャラリー
のほかにアトリエやユニークなアートプロジェクトの事務局が
あって、なかなか面白い試みのようだ。区の資産を民間が運営
するという方法だろうが、あまり人集めできていないように見
受けられ、資金繰りの問題で閉館・売却の果てに取り壊わされ
てビルになると言う運命だけは辿って欲しく無い。
 で、“ひとはなぜ絵を描くのか?”。この問いは、ゴーギャン
の、あの”我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はど
こへ行くのか”に繋がる芸術の大テーマではあるが、それは人の
生きるテーマでもあるわけで、この展覧は、なかなか分り易い
展観になっている。
日比野はパリ経由でカメルーンへ行った。パリで30枚の画用紙
を仕入れてホテルに籠り、部屋の中で目にするものを毎日描い
てゆくが、その作業の中で自分が何を見、思い、描いているの
かを思索する。だんだんと描くものが無くなって、20枚描いた
ところで、白紙の画用紙10枚を持ってカメルーン行きの飛行機
に乗る。カメルーンでも描く機会を持とうと思ってはいたが、
結局その10枚は白紙のまま日本へ帰国した。
 絵画でも文章でも同様に、描く対象と内容、思い、きっかけ
や環境、制作過程での作者の内面の変化変容といった要素は、
作品の成立に深くかかわることは容易に理解出来ると思う。
日比野のアートはポップ風な作為溢れるコンセプチュアル・
アートで、今回の展観はそのことを強く意識させる。
Sidewalk_akiba_2

 とてもスッキリした気分で最寄りのJR秋葉原駅に向かった。
ピンクのダウンジャケットを羽織ったメイドスタイルの女の子
たちが呼び込みをしている。ラブラドール犬を連れたオヤジが
ビルの谷間を散歩している。駅前広場から、ホームで待つ乗客
たちがよく見える。
”ひとは何故…” ”我々は…”あの人たちは、そのあとに何
を問い かけているのか? …なんてことを感じながら帰路に
ついた。

St_2

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アディーチェの印象

 国際ペンクラブの東京大会が開かれた。
そのプログラムのひとつである文学フォーラムで、作品の
朗読と作家のスピーチが組まれていて、招待作家の一人に
アディーチェが入っていた。今私が最も注目している作家
の一人で、以前このブログでコメントしたことのあるナイ
ジェリア出身の若手女流作家だ。
その代表作「半分のぼった黄色い太陽」で、自身は体験し
ていないビアフラ戦争の時代を設定した背景、朗読で紹介
される短編集「アメリカにいる、きみ」で描かれている
アメリカ移民たちや現代のナイジェリア問題に対する思い
を聞いてみたくて行ってみた。
 この夏、この国でもいつものように終戦記念(はっきりと
敗戦記念と呼ぶべきだと私は思う)の記事や番組がマスコミ
から発信されたが、その論調の多くは直接体験者の減少によ
って風化しつつあるとされる問題への危惧だった。
確かに私あたりが、日本が戦争の当事者だったという実感を
持つ最後の世代に属するだろう。勿論、直接体験者は私の親
の世代ということになる。60〜70年代の安保反対闘争に奔
走したのは、その中間である戦中生まれの世代だ。
 アディーチェは1977年生まれで、1967〜70年に起きた
ビアフラ戦争に関しては戦後世代だ。祖父を難民キャンプで
亡くし、両親は戦禍に巻き込まれて大変な苦労を経験したと
いう。アディーチェが生まれた後も戦争の爪痕は強く残って
いたし、親族や近隣の年長者たちの話は彼女の追体験として
蓄積されていった。
ナイジェリアは1960年の独立以来、政争と軍事クーデター
が繰り返され、数年毎に文民政治と軍政が入れ替わってきた
国だ。イギリスの植民地として統治されていた時代に形作ら
れた体制。250以上あるという部族間に刷り込まれた階層。
北部のイスラムと南部のキリスト教という宗教対立に加えて
石油をめぐる資源争奪が絡んだ権力闘争。
それらが一気に噴出したのがビアフラ戦争だった。
 そうした背景の中で生まれ育ったアディーチェが、どこから
来てどこへ向かうのか…を追い求めるなかで、あの過酷な戦争
はどうしても描かないわけにはいかなかったのだ。
 今回の大会のテーマは、環境と文学「いま、何を書くか」。
このテーマはアディーチェにとって、まさに書くという行為の
神髄に違いない。そしてそれは読者にとっては「いま、どう生
きるか」という問いとして跳ね返ってくる。
だからこそビアフラ戦争の背景を知らない者にも、多様な世界
で起きている人間の営みの断片としての説得力を持つ。
アディーチェの小説は単なるアフリカやアフリカ人の物語では
ないし、アメリカのアフリカ人の物語でもない。そこには普遍
的な人間の姿が描かれているのだ。
…そんなことを感じさせてもらえたスピーチだった。
アフリカ人らしい恥じらいと同時に、強い存在感を発散させる
魅力的な作家だ。美人ですよ。

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古屋誠一メモワールと世界報道写真展

 都内まで出る機会があったので東京都写真美術館まで足を
伸ばした。気になる写真展が開催されている。
 古屋誠一という人物はあまりよく知らないが、アラーキー
こと荒木経惟と比較して名前が挙がることのある写真家だと
いうことで見てみた。はっきり言って私には評価できない。
荒木と比較されるのは、亡くなった妻とのメモリアルな写真
表現が古屋作品のメインだからのようだが、私には荒木作品
「センチメンタルな旅」や「陽子」などの持つ「愛」が感じ
られない。古屋の、あくまでも自分のなかのメモワールにこ
だわり続ける姿勢と、そこから生まれた作品世界は閉じ過ぎ
ていて嫌いだ。ドイツやヨーロッパでは評価されているそう
だが、荒木とはとても比較出来る程ではない。
Photo
 同時に開かれている世界報道写真展2010。この写真展に
は毎年通っている。その年に何が起こり、どのように写し
取られたのか、どんな評価を得たのかがよく判る。
やっぱり今回も戦争や紛争、自然も含めた世界の混沌に材を
得たものが多い。大賞はテヘランでイタリア人写真家が撮っ
た建物の屋上の夜景。選評で「説明無しに、その写真を見た
だけでは解らない作品を選んだものか苦慮した…」みたいな
ことが記されていた。
それはあの写真に限って言うことではないと思う。報道であ
ろうと別のジャンルであろうと、キャプションやタイトル無
しに伝わるものは少ないと、常々思っていた。多くの写真は、
一般的なニュースや世界事情についての予備知識があって初
めて訴求力と意味が宿る。というか、キャプションを伴わな
い写真は成立しないのではないかと、私は思う。
 というのも、写真は常に現実に目の前に見えた対象とカメ
ラマンとの間に生じた邂逅の瞬間を捉えたものであるからだ。
少なくとも、いつどこで、どのような状況で撮られたものか
を知らずには、フレーム内に切り取られた瞬間である一枚の
写真から多くを読み取る事は困難だ。
同じ写真に別のキャプションを付けたりすれば、それは全く
違う意味と印象を与えてしまう。例えばポートレートの部の
単写真一位「拒食症のティーンエージャー」を「イラク帰還
兵」としたら、それはそれで違う写真として成立してしまう
だろう。それは許されることではないが、イメージ操作とし
て広告や政策のためにそうした効果を、戦略として敢て利用
するようなことも行われている。
 …なんていうことを改めて思いながら恵比寿の街を歩いて
いた。

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わたしたちはどこへ行くのか

 少し前の話になるが、9月23日まで国立近代美術館でゴーギャ
ン展が開かれていた。どうせ人が一杯でちゃんと見られそうにな
いだろうと、閉幕近くまで躊躇していたけど、やっぱり行ってみ
た。予想通りにラッシュ時の電車並の混雑だった。
さてお目当ては万人共通の、あの大作「我々はどこから来たの
か、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」だった。
そうだよなあ、じっくり自分のペースで鑑賞なんか出来ないよな
あ、と思いながら人群れの流れに乗って眺め過ぎるしかなかった。
…ということを、1カ月以上過ぎた今頃になって思い出している。
すぐには感想がまとまらなかったのだが、もうすでに有名無名の
多くの人がコメントしてきたように作品や作者について語るので
はなく、タイトルを語ってみたいと思う。
 芸術表現というのは、すべからく「我々はどこから来たのか、
我々は何者か、我々はどこへ行くのか」への自問自答の軌跡が
表されたものだ。それは絵画でも音楽でも文学や写真や映画など
でもジャンルを問わず共通して言える。芸術家たちは誰もがそう
気付いているけれど、敢てそんなことは表出しないものだ。
では何故ゴーギャンはそれをストレートにタイトルにしたのか。
病んでいたのだと思う。帰郷するも失意の後の1895年、二度目
のタヒチ行きの後に描かれたあの作品は精神的な遺言と位置づけ
られているとのことだが、制作中は貧困と健康悪化や娘の死など
などで最悪の精神状態だったらしい。
 話が飛ぶようだが、つい最近の加藤和彦さんの自殺と関連させ
て考えてしまう。加藤さんの場合その自死の背景や真相は、遺書
らしきものを残されたというごく親しかった人でさえ未だに判然
としないのではないだろうか。テレビニュースで耳にした或る証
言によると、音楽ではやることが無くなった…とか言っていたと
もされるが、それは違うのだと思う。
理由が何だったかは分からないけれど、多分あの命題「我々はど
こから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を問い
自ら応える作業に躓いてしまったのだと思う。そして自ら命を断
つという表現でしか答えを出す事ができなかったのだろう。
 加藤さん、あなたが行ってしまった世界がどこなのか、お分か
りになりましたか?

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lost boys calling

 ずっと気になっていた、とても好きな曲がある。
Pink Floydの中心的な存在だったRoger Watersの”lost boys
calling"で、彼がソロとなって発表したアルバム、"flickering
flame"の最後に入っているoriginal demoバージョンは何回聴い
ても胸に刺さる。作曲は映画音楽で有名なイタリアのEnrico
Morriconeで、彼らしいノスタルジックな旋律がロジャーの掠
れた叫びに乗って秀逸だ。しかしその歌詞はなんとも比喩的で、
いろいろな意味に解釈が可能でなかなか訳し難く含蓄に富む。
私なりに訳してみた。

 さあ 俺を抱き止めてくれ 俺は行かなかったよ
 こんな波立つ底の死んだような静けさの中に
              お前一人を置いて行けやしない
 俺にはまだ 
      あの行ってしまった少年たちの呼び声が聞こえる
 お前達は また置いてゆかれるかと恐れるあまり
              声をあげる事も出来ず
 ただ帽子のつばに手をかけて手を振るしかなかったんだな
 そしてまた 鉄の墓碑の間を戻って行った
 モット・ストリートに海鳥の鳴き声が聞こえるようになる7月
 俺は子供を抱きかかえているだろう
 俺たちがどこかに置いてきてしまった
 あの 俺たちの子供を

 スポットライトが消え 少年たちは散りじりになった
 最後の一音は砂のなかに 墓地の静けさのなかに失われた
 俺にはまだ
      あの行ってしまった少年たちの呼び声が聞こえる 
 西が勝利するために
        男たちは出てゆかなければならなかったから
 俺たちは幼い彼らをあそこに置いて来るしかなかったんだ
 今はもう やること無く日を過ごすだけだ
 釣りに連れて行ってくれたことは無かったね 父さん
 でも今はそれは叶わない
 モット・ストリートに海鳥の鳴き声が聞こえるようになる7月
 俺は子供を抱きかかえているだろう
 俺たちがどこかに置いてきてしまった
 あの 俺たちの子供を   

これはほぼ直訳なので、"boys" "steel tomb" などが何を示すのか
は考察が必要だ。それに"the child in the man"や、"I" "you"
"we"をどのように解釈すればいいのかも課題だ。
例えば"the west was won"はどうだろう。2002年に出たアルバ
ムなので89年のベルリンの壁崩壊は少し古い。
第一次湾岸戦争も1991年だし、第二次湾岸戦争は2003年だから
始まっていない。
ちょっと政治的に考え過ぎだろうか? 前半はPink Floydの解散
に関連した意味があるのかもとも解釈できない事も無い。
でも後半は自身の生い立ちと関連していると思われる。ロジャー
の父親は第二次世界大戦に出兵しイタリアで戦死している。母親
は共産党員で自身も社会主義社だと公言して憚らない。ベルリン
の壁が取り払われた後、"the wall"と名付けたコンサートを行った
事で知られるロジャーの、さまざまな思いが凝縮されていること
は間違いなさそうだ。

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ADICHIE

 もう一人、ナイジェリア出身の若い女性作家に注目している。
Chimamanda Ngozi Adichieだ。BBCの雑誌Forcus on Africa
の記事でO.ヘンリー賞作家として着目されていた記事を読んだの
で名前は知っていた。その邦訳短編集「アメリカにいる、きみ」
(蛇足だがこの邦題は全く気に入らない)」が書評で話題になり
すぐに読んだ。
アディチェは1977年にナイジェリア南部、あの内戦で知られる
ビアフラ地方で生まれたイボ民族だ。ナイジェリア大学の学生時
代に渡米し単編長編の小説を次々に発表し、いくつもの賞を受賞
している。いまはイエール大学に籍を置いてナイジェリアとアメ
リカを行き来しながらアフリカ学の研究をしているという。
ぜひ原文で読んでみたいと思っていたので、去年娘に会いにアメ
リカへ行った時に書店で探し、長編2冊「Purple Hibiscus」と
「The Half of a Yellow Sun」を買った。
ナイジェリアを二分したビアフラ内戦は1967年から70年の間に
起ったことなので、1977年生まれのアディチェ自身に戦争体験
は無い。ところが上記の2つの長編を含めて彼女の作品の多くは
この内戦の前後を時代背景に反映した作品だ。世界の多くの途上
国が様々な事情で内戦を経てきた(今まさにその渦中にある国も
勿論あるが)今、彼女の描く世界は他国の出来事・単なるフィク
ションとして以上に多くの読者に色々な事を考えさせてくれる。
また、短編でしばしば取り上げられているもうひとつのテーマは
アメリカへ移民となったナイジェリア人の暮らしで、これもまた
広く共感を得られる現代的な問題だ。
 こうした問題は私自身がケニアで体験し、今もアメリカに移住
して行った元妻や息子・娘を通して痛烈に考えさせられている問
題に通じている。アフリカの内戦・内乱はどうして起き、誰がど
のように辛酸を嘗めたのか。その結果何が起こり、今現在の何に
どのように影響を与えているのか。そこから派生するものは深い。
アメリカのオバマ大統領誕生も、そうしたことが背景にある事は
間違え無い事実だと思う。

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K'NAAN

前回K'NAANというソマリア人ラッパーのことに触れた。
13歳の頃に戦乱のソマリアを逃れた移民で、当時はソマリア語し
か話す事は出来なかったという。祖父には有名な詞人(ソマリア
には口承の詩歌を詠む伝統があって、人前で詞を諳んじた。文筆
をする詩人ではない。また、職業ではない。)だったそうだ。
蛇足だが、ソマリア語が言語として体系付けられたのは1974年
で、それまでは文法や文字化に決まりは無かった。書き文字はア
ラビア文字が充てられていたが、今はアルファベット表記になっ
ている。
発音はアラビア語風で、たとえばカタカナでは「ハ」と聞こえる
音は口を半開きにして喉から強く短く息を出す音で、アルファベ
ットではXaが充てられる。
とにかく彼は、そうした家系に育って祖父の朗誦する詞を頻繁に
耳にしてきたという。7歳頃から自分でも朗誦を始めていたらし
い。最初にニューヨークに着いたあとカナダのトロントへ移り再
びニューヨークに移った。その間に英語を習得、英語とソマリア
語で自作の詞を作りラッパーとして活動を展開した。少人数編成
のライブでは首からかけた太鼓を自ら叩きながら、ソマリア伝統
音楽にも似たスタイルでのパフォーマンスも見せる。世の中の出
来事やそれに対する思いなどを、韻を踏んだ言葉にこめて発信す
る。それが彼のラップで、これはソマリアに古くから伝わる口承
文学の系譜にも繋がっている。
 私がナイロビに暮らしていた頃、年に1〜2回位は家でミニライ
ブのようなことが行われていた。誰かの何かの祝いや断食開けの
祝いなどの機会だったりしたが、歌い手とギター(本来は琵琶の
原型とされるウードと呼ばれる弦楽器だが、現在はガットギター
で代用されている)に太鼓とキーボード程度の簡単な編成の演奏
家を呼んで家の応接間で一晩宴が続いた。そんな歌い手のレパー
トリーには、ソマリア伝統の口承詞も含まれていたて、集まった
誰もが自然と合唱を始めるような曲がいくつかあった。古くから
伝わる歌なのだと教えられたが、ソマリアの歴史や文化はそのよ
うに口承と言う形で伝えられてきたのだそうだ。
K'NAANのラップにはそうした口承詞が反映されていて、それを
モダンにスタイル変換をしたものだとソマリアの人たちには評価
され人気があるのだ。挨拶程度のソマリア語しか分からない私に
はラップとしての音楽性に惹き付けられた。ともすればパターン
化された単純な音作りと露悪的な自己顕示に聞く気を無くさせる
ラップも、K'NAANのサウンドにはひと味もふた味も違う魅力が
ある。
多分まだ日本のCD店には置いていないかもしれないが、第一作
の「The Dusty Foot Philosopher」というアルバムを見かけた
ら是非一聴頂きたい。

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伝統と国籍 2

ソマリア人は非常に頑固なところがあって、それはなぜか私の
気質に合う。頑迷とさえ言っていいような彼等には、近代的文化
とはある意味で相容れない文化的要素がある。それは何かと言う
と、利便性や合理性に背を向ける資質のような気がする。
例えば先に書いたソマリティの作り方なども、各種の香辛料を臼
で砕くところから始まる。元妻とつき合っていた頃、初めて彼女
の住まいに泊まった翌朝、炊事場から何かを叩く強い音を耳にし
て何だろうと訝ったものだ。それが臼の中のカルダモンやシナモ
ン、クローブといった香辛料の粒を杵で叩き潰している音だった
のだ。たとえ電動粉砕器のようなものがあろうと使わない。
彼等はそのように手で砕いてこそ香辛料の香りが出るのだと信じ
ている。アメリカに暮らす元妻や娘に会いに行った時も、彼等は
相変わらずそのようにして美味しいソマリティを作っていた。
そんな彼等にとって国籍は外出するときの上着のようなものでは
ないかと思う。用向きによって使い分ける道具のようなものだ。
 ケニアに暮らしていた最後の数年、私はソマリア内戦の混乱で
逃れてきた多くの人たちを見てきた。元妻の親類縁者だけでも何
百人という人たちが我が家に寄宿したり立ち寄ったりしていった。
そんな人たちの多くが今は欧米諸国に暮らし、すでにその国の国
籍を持っている人も多い。そんな人たちも、所謂国籍上の○○国
人と出自上のアイデンティティを現すソマリア人とを使い分けて
いるようだ。何故それができるかと言うと、彼等にはソマリア人
であるという強い自負が刷り込まれているからだと感じる。
 カナダを拠点に活動しているK'NAANというソマリア人ラッパ
ーがいる。彼もまた少年時代に故国を逃れて移住を余儀なくされ
た者の一人だ。そのファーストアルバムCDをアメリカに居る息子
に探してもらって手に入れていたが、これが素晴らしい。まさに
ソマリア人としての出自が現代的な表現形態として昇華されてい
る。 

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ソマリアの婚約式

 婚約式ニカアは二人が婚約したと皆で確認するための儀式だ。
元妻の妹は当時19歳。ナイロビの私の家に居候として暮らしてい
た。その娘に、タクシードライバーの男が婿として名乗りを上げ
た。同じソマリア人で同じ氏族同志だった。
まずは婚約しておいて、実際に結婚するのは本人たちの経済的・
社会的条件が整ってからのことになる。それがいつになるのかは
インシャアッラー(神の思し召し)である。
婚約や結婚は親の承諾無しには成立しないのがソマリアの伝統的
な婚礼で、婚約はそうした承諾の儀式として、ある意味で結婚式
以上に重要でもある。婚約が成立しない限り結婚は実現しない。
 さてその婚約式の様子を再現してみよう。
ある夕方、ケーキにビスケットなどのお菓子が大量に買い込まれ
ジュースやコーラにソマリティーが用意された。ソマリティーと
いうのは紅茶の葉とともに、臼で搗き砕いたシナモンとカルダモ
ンとクローブを煮込み、たっぷりのミルクと砂糖を入れた紅茶だ。
我が家に親類縁者が集まり、一階に男達が二階には女達が別れて
集まってお喋りに花が咲いた。やがて一階で花婿候補を中心に車
座となっていた男達の中から一人がが二階へ向かった。伝令とな
って婚約の申し出を伝えるためである。二階の女達の中心に居る
のは花嫁候補だ。
申し出に対してすぐに返事が返されて伝令役がこれを持ち帰る。
すると今度は婚資として花嫁への結納金について花婿候補から伝
令が飛ぶ。婚資というのは花嫁に対して支払われる資産で、伝統
的には羊やヤギ、牛や駱駝といった家畜だった。都市部では金銀
等の財宝とか現金も使われる。このときは、ある金額が伝えられ
それを承諾する旨が一階に伝わったところで式次第は終了した。
 すると二階から女達の甲高いウルレーションが響き渡った。
ウルレーションというのはアフリカやアラブの女達が歓喜の時に
出す叫び声の一種だ。少し開いた口の中で舌を激しく振動させる
ことでバイブレーションを伴った「ルルルルルル…」という甲高
い声が出る。この叫びに続いて唄まで始まった。本来ならばこの
あとは踊りに発展して夜を徹して続くはずだ。
 このソマリア伝統の風習は、海を越えてアメリカでも続けられ
てゆくのだ。しかしもう、そうした風習を育んで来た土地は内戦
でボロボロになり見る影も無い。アメリカに移り住む彼等の精神
風土は次第に失われていくのだろうが、どのように継承されてい
るのかを見届けるためにも、4月には是非とも息子の婚約式に出
席しなければ。 

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