« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

実年齢と内面年齢

  あるとき、ふとしたきっかけで手にした本の著者の作

を次々に読んでみたくなることがある。

 田口ランディのときは、市立図書館の廃棄処理本の中

にあった「コンセント」を見つけて持ち帰ったのがきっ

かけだった。なにか気になる作家ではあったけれど、何

故か読む機会を逸していたのだが、「コンセント」にビ

ンビン響くものがあって全部読んでみようと思った。

でも田口の小説はどれもがつまりは「コンセント」に流

れる主題の変奏のようだと言う気がして全部を読む気が

なくなり、主にエッセイとか紀行を読み漁った。

  処女作だという「忘れないよ!ヴェトナム」とか「ひ

かりのあめふるしま 屋久島」が特に良かった。

 上原 隆も、ふと入ったBook offで目にした文庫版

「喜びは悲しみのあとに」を手にして数ページ読んでみ

て、なにやら琴線に触れるものがあった。

 タイトルは何やら埃っぽくて、いつ頃書かれたものだ

ろう?と訝しかったが、そこいらに幾らでも目にするよ

うな人達の、思わぬ生き方をサラリと掘り下げる語り口

と視点に惹かれた。

 私と共通するような物の味方と、興味のありかたに共

鳴したらしい。幾つくらいの人かと思ったら姉の世代で、

映像制作会社に勤める傍ら執筆活動をしているという。

 そうかそうか、という感じでいよいよ親近感が湧いて、

他の著作を探した。

 著者紹介によると日本のボブ・グリーンと称されてい

て、その手法をルポルタージュ・コラムというそうだ。

…ということを初めて知った。なるほど!

 で、その上原の「雨の日と月曜日は」(単行本では

「1ミリでも変えられるものなら」)に、“年齢”とい

うタイトルのコラムがあって、自分の内面の年齢が子ど

も時代のままだったり、話している年若い相手と同じよ

うな感覚だったりする、というようなことを書いている。

 昨日、久しぶりに息子と親子らしい会話を交わす機会

があった。そういえば26歳の息子と対面しながらも、

父親であるという感覚と自分も同じ年代だった、あの時

代に遡って喋っているような感じがした。

 最近は仕事をする場面では同年代との接触は少なく、

どうしても年下の人達のなかに入ることが多く、そん

なときもまた、同じような感覚で対しているつもりな

のだが、あるときガラスに映った自分をハッと見つけ

るように、実年齢とのギャップにギクリとしてしまう

事があるものだ。

 そして昨夜、息子は私を若いよと言ったが、それが

見た目のことなのか会話の内容とか内面の事を指して

いるのかを聞くのを忘れて、いやいや他人はそうは見

てないようだぜ、と自嘲してしまったのだった。

  今度息子と会ったら、私の若さについてもう少し突

っ込んで聞いてみなければ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

繁華街の風景から

  ここしばらく、妙な仕事で深夜近くの繁華街を通って

帰宅する日が続いた。新宿歌舞伎町、横浜西口、池袋東

口、上野歓楽街…このご時世、意外と遊び人たちの姿は

多い。特に若者たちが目立つ。

 恒常化した不況に加えて大震災と原発禍に翻弄されて

いるこのニッポンで、遅くまで呑み歩く人たちがこんな

に居るのかと思ってしまった。

  ところが鉄道の駅に行きホームで電車を待つ人を見る

と、どうも様子が違う。以前のように酔ってふらついて

いるような者は少なく、みな疲れている。

  会話を聞いていると、どうも多くは飲食店や風俗業界

の従業員らしい。他には人員削減のために仕事量が増え

た分、残業を余儀なくされた会社員などが混じっている

という感じなのだ。

 政治は空洞で経済は停滞。この今、私たちには目指す

ところが無いのだなと思う。こんな時だからこそ、やる

べき事や考えなければならない事があるのだと、気付か

せる存在が必要だ。

 K’NAANはサッカーのワールドカップ南アフリカ大会

のテーマソングWavin’ Flagで一躍名を馳せたが、彼

の祖国ソマリアには未だ実効的な政府は無い。それでも

国は動いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マスコミの馬鹿と政治屋たちの国

  今頃になってメルトダウンを大騒ぎしているけれど

当初からあやふやな会見内容について突っ込んだ質問

もせず、問題の核心を突くことをしてこなかった、と

いうか今もって究極の問題点と事実関係について何の

掘り下げもしていないマスコミには、東電や政府とも

ども同じく知る権利・知らせる義務を怠ってきた責任

がある。

 長年にわたってテレビ業界の内側に携わって来たこ

とから判ってはいるが、マスコミでもテレビ業界は特

に馬鹿ばっかりなのだ。

 今更のように東電と政府がメルトダウンの可能性と

公表の隠匿を責めるような発言をするテレビニュース

のキャスターと呼ばれる輩がいるが、馬鹿言うんじゃ

ない!メルトダウンは回避できていると言った根拠を

解明させていなかったのはお前らだ。自分たちも共犯

だという事を意識するような奴は居ない。

 前にも書いた。今もそうだが、ちゃんとモニタリン

グ出来ていないデータで何が判るのだ?!わからない

からこそ、最悪の状況を想定して対処するのが危機管

理なのだ。

  命を賭して現状に向かい合っている作業員の多くは

協力会社という妙な呼称で一括されている下請けや孫

請け・曾孫請けでかき集められた非正規雇用で危険保

証も無い日雇いに近い条件の労働者だ。高給取りの正

規社員は、離れたところで事実の隠ぺいに血道をあげ、

政権取りゲームしか頭に無い政治屋たちは国民のこと

など何も考えてはいない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

思考停止ニッポン

前に書いたけど、燃料棒がメルトダウンしているなん

て事は事故発生当初から分かっていた。

そんなことは専門家でない一般人にも容易に予測でき

たことで、最近使われている想定などではない。

 今頃になって計器が作動していなかったので判らな

かった、などという言い訳なんか通用する筈がない。

会見場では取材者は説明の馬鹿さ加減にツッコムこと

もせず、新聞、ラジオ、テレビでも誰も指摘して来な

かった。ほんとうに日本全体が思考停止していて、そ

うこうしている間に、放射性物質は濃度を上げながら

どんどん漏洩し、原発周辺だけでなく日本だけでなく

世界中に拡散を続けている。

 それを「想定」したからこそ、すぐに避難させたん

じゃないのか!?みんなこうなることを判っていなが

ら無駄に時間と労力と予算を費やしてきたのだ。

 静岡の茶畑でも基準値以上の放射性物質が計測され

たなんて騒ぎ始めているが、そんなこと誰にでも予測

できることで、日本中を細かく調査・計測すればもっ

と色々な事態が進行していることが判る筈だ。

 はっきり言って首都圏も危ない。もう既に私たちは

空気や水やから内部被ばくを受けているに違いない。

風評被害を防ぐため、なんてお茶を濁さないで、はっ

きり公表した方がいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脱原発デモ

  世田谷で脱原発デモをやるというので出かけてみた。

反…ではないところはどこか?見てみたかった。

 羽根木公園に集まった家族連れや市民運動家とい

た人達に世の中を動かそうという気概は感じられず、

休日の散歩といった感じはチラシからも見て取れる。

Photo

 子どもたちの未来のためにエネルギーシフトを、

いうのがキャッチフレーズで、主催者や関係者が

替わりマイクを握って趣旨や思いを吹聴していたけ

ど、何ゆえに敢てデモをするのか、一体誰に対して

アピールなのか、さっぱり要を得ないのだ。

 何が脱…かということもよく分からない。反対はし

ないけど、今あるものを除々に減らしながら他の電力

エネルギー生産方法に変えていこう、ということのよ

うだったが、私はやっぱり反旗を翻さなければ意味が

無いと考えている。そして電力を頂点とするエネルギ

ー消費のあり方そのものを考え直し、暮らし方そのも

のを変えていく文化革命が必要だと思う。

 あれでは、言っていることは違っていても形ばかり

の被災地巡りをしている政治家と、やっていることは

たいして変わりない。連休の暇つぶしでしかない。

 デモに参加したのは911後のイラク空爆反対デモ

以来だ。あのときは都心の日比谷公園から銀座あたり

を行進するということで数千人規模の大きなものにな

ったし、世論も或る程度後押ししてマスコミもとりあ

げたり、示威行動としてはそれなりに意義はあったか

とは思う。それでもやはりこの国でデモは殆ど力が無

いということを再確認した。

 デモにしても署名運動にしても、この国では何も動

かすことができないとシニカルになってしまう。特に

この国でデモを行うことは、意思表示しましたという

参加者の自己満足以上のものにはなり難い。

 一つの命が失われた60年安保のときでさえ歴史上

エポックとして記されただけで、結局は日米安保条約

は今日まで自動延長を続けている。

 本当にアピールしたいならば、国を動かしたいなら

ば、平日に国会周辺に繰り出しでもしない限り意味が

無いが、そうしても、政治家が動くことは無いのがこ

の国の貧しい現状だろう。

 次の週末にも今度は都心でデモるというが、デモな

んかやる暇があるなら議員になれ。内側から変えてい

かない限り国を動かすことはできないし、まずは現状

の政党政治の体制を崩し、国会議員を一掃してこの国

の生き方を軌道修正しない限り、国民一人一人の暮ら

し方に方向性を持たせない限り、世の中が変わること

はない。

 などと考えながら世田谷散歩をして帰って来た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゴドーと田村

ようやく最近になって「田村はまだか」の文庫版が

出た。何年か前に書評を読んで以来気になっていて、

朝倉かすみの著作は何冊か読んでいた。最近着目して

いる作家のひとりで、でもまだ何故か「田村はまだか」

は読んでいなかったので、この連休に読んでみた。

Photo

小学校時代のクラス会の流れでバーに集った5人の

男女の一夜。同窓生である田村を待つうちに40歳の

それぞれの過去と現在。田村とは誰なのか、どんな存

在なのかが次第に明らかになってゆく。

 さすがに朝倉かすみ。私たちはどこから来てどこ

へ向かい、どのように生きるのか…という芸術の根本

命題への問いかけが絶妙な会話とともにスラリと流れ

てゆく。

「ゴドーを待ちながら」は不条理演劇の代表作とさ

れているサミュエル・ベケットの戯曲だが「田村…」

を読みながら、ああ、これは現代日本の「ゴドー…」

なのだなと思った。

 私は「ゴドー…」は不条理というよりも実存主義的

な作だと解釈している…まあ、実存は常に不条理では

あるし、そういう意味で2作は通底していると思う。

というか、なんだか「ゴドー…」の焼き直しじゃない

かと思えて来た。しかも「田村…」のほうは最後には

なんとも救いのある展開になっているので、ブッキッ

シュなアフォリズムに彩られた「ゴドー…」よりも

遥かに心に沁みる。

そう言えば「ゴドー…」のGODOT(このスペルで

ゴドーと長音表記になっているのはどうしてか?

と、いつも思う)はGODのモジリだと言われてい

るけど、その対比で言えば田村は仏か?

この混乱する日本で待たれているのは国民一人一

人の田村なのだろう。田村はまだか…と待ち続けて

いるうちにこの国が沈没してしまうようなことだけ

は起こって欲しくない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

持たない暮らし

 2月にアフリカから戻って以来、思うところあって

徐々に所有物を少なくしてきた。

都合良く不肖の息子がようやく自立に目覚めて出て

くことになり、家財道具まで引き渡してしまった。

洗濯機も電気炊飯器も電子レンジも、去年エコポイ

ント締め切り間際に買った地デジ対応の32インチ薄

型TVも。ええい、冷蔵庫も持ってけ!と思ったけ

ど、さすがに単身者用1kマンションには大き過ぎ

17年ものの大家族仕様の冷蔵庫だけとは付き合い

続けなければならない。

 殆どの家電は、無ければ無いでいくらでも対応で

きる。旅先などと同様こまかな洗濯は手洗いで済む

し、溜めておけば近くにあるコインランドリーで済

ますことができる。米は鍋を使えば結構うまく炊け

るし、電子レンジなど使わなくても何ら不自由はな

い。最近はFMラジオを聞くことが多いので、たいし

た番組の無いテレビなんか見なくてもいい。

冷蔵庫が無くてもその日その時に必要なものを必要

なだけ買えばいいのであって、考え方をちょっとし

た転換させて、やり方さえ知っていれば何というこ

ともない。

だいたい、今の世は便利とか早さなどということば

かりに取りつかれている。それは若い奴の「メンド

クセー」という常套句に如実に表れていて、あの言

葉を耳にすると虫唾が走るのだ。

 しかし、物を持たないことの解放感はなかなかだ。

小型のバッグひとつで旅に出る、あの感覚で毎日を

送るというのもまた新鮮で、適度の緊張感もある。

自分が何をしたいのか、本当に必要なものは何か、

どこへ向かおうとしているのかをいつも意識してい

る必要がるからだ。

そしてガランと広くなった家は、寂しいどころか

何故か居心地良い。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »