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2009年10月

大つけ麺博とアイヌ・フェスティバル 3

 こだわりのラーメンに求められているのは、科学的なものを
排してより自然な状態で作り出される原材料を使う。速成の大
量生産ではなく、身の丈に合った量を日々消費される分だけ、
無駄を出さないようにコツコツと作る、という姿勢だ。
行列のできる人気ラーメン店で、科学調味料や量産品を使うこ
とを公言する例は無い。逆に自然素材を手間ひまかけて作りあ
げるのが王道だ。その日の仕込み分のスープや麺が無くなれば
店じまい、ということもある。またオーガニックのもう一つの
意味に「生きているものを形成する要素」があって、敷衍して
「自然のままに在ること。それが体に溶け込んでゆき、体その
ものとなること」というように考えられる。
たかがラーメンに…ではあるけれど、この病んだ現在の裏で、
何とかして不自然な物事から揺り戻しを掛けたい、という意識
が働いているのではないか。
 低価格(その裏には低賃金がある)を競い、大量消費(その
裏には大量廃棄がある)によって利益を得ようという風潮が大
手を振る世のなかで、そんな動向に対するカウンター・カルチ
ャーと言うと大袈裟だろうか。
ラーメン店に長い行列を作る私達は、ゆっくりと時間を使いな
がら豪華でも豪奢でもない「贅沢」に浸っている。アイヌのト
ンコリ演奏に感じる「オーガニック」に、こだわりラーメンの
「贅沢」と通じるものがあると私が感じるのはそんな部分だ。
誰だって(と私は思うが)100円でも50円でも安いジーパンを
求めたいわけじゃない。財布が赦すなら、料金を度外視して自
分が好むデザインや素材のものを手にしたいと考えるのは当然
じゃないか。でもそれは叶わない。ラーメンならば全国各地に
特色とこだわりを持った作り手がいる。どこかに自分の好みに
近いものを味わうことのできる店があるだろう。
一本の木を選ぶところから始めた自作のトンコリ。歩むように
奏でられる弦の余韻は、私にとって最上のスープを口にしたと
きの感覚に似ている感じがする。

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大つけ麺博とアイヌ・フェスティバル 2

 この催しはアイヌ文化振興・研究推進機構という財団法人が、
国の後援で毎年開いているものだという。
私の興味は演奏と口承文芸の実演にあった。
トンコリという民族楽器があって、OKIというミュージシャン
のCDを持っている。トンコリという楽器は1メートル前後の一
本の木の胴部分をくり抜いて天板を付けたものに弦を張ったも
ので、抱えて両手で弾く、言わば琴のような音を奏でる。
ゆっくりと歩むような、シンプルなリズムの繰り返しがうねる
ように続くのがその音楽の特徴で、歌を伴う事も多い。
このトンコリが合奏になると、倍音が共鳴しあったりしてなん
とも言えないグルーブ感が醸し出される。OKIはそんな部分を
うまく使って、電子楽器やロック系ミュージシャンなどを加え
て非常に現代的なDUB、トランス系musicを産み出してもいる。
その伝統的なトンコリ演奏を生で聴く事ができた。関東ウタリ
会というアイヌの人たちの同好会のような女性グループだった。
プロではないからこその、日常の生活時間をやりくりしながら
練習した音楽にはまたそれなりの思い入れが加わるもので、良
かった。トンコリも、博物館に残されている昔のものを参考に、
自分達で作ったものだという。
 このトンコリを含めてアイヌの音楽を、オーガニックな音楽
と評する人がいる。これはかなり意訳的に援用された日本語的
な使い方だ。オーガニックとは勿論、英語のorganicからきて
いる。その意味の一つが、食物や農産物に関して使われる有機
栽培(農法)だということはみんな知っているだろう。
ここで言うオーガニックは、有機栽培という意味では勿論ない。
スロウフード運動とかエコロジーという考えの中心にあるもの
に近いかもしれない。伝統に根差し、自然や先祖代々暮らして
きた環境とともに在ることを選ぶ、地に足を着けた生き方。
そう言って良いかもしれない。
そのオーガニックをキーワードにすると、ラーメンブームと
アイヌ文化がクロスする部分があると気付く。

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大つけ麺博とアイヌ・フェスティバル 1

 日々谷で大つけ麺博なるイベントが開かれている。ちょうど東
京国際フォーラムで開催のアイヌ文化フェスティバルに行こうと
思っていたので、ついでに少し早く出て寄ってみた。
13時までに有楽町なので少し早めにと思って行ってみたのだが、
11時に日比谷に着いたら、すでに多くの人が行列を作っていた
ので驚いた。
 ワイドショー系のテレビ番組で視聴率を稼ぐにはラーメンと温
泉ネタというのは業界の常識だけど、この不況にもラーメン人気
は落ち込む様子が無いらしい。コダワリを謳うラーメンやつけ麺
は店で食べても一杯700〜800円するが、ああしたイベントにな
ると一律800円というのが相場のようだ。しかもイベント仕立て
で量が少ない。それでも長蛇の列が途切れることがない。
私もその列に並んだわけで、30分ほども待ちながらこれはどうい
うことなのか考えた。
 家計緊縮の今、立ち食いそばや牛丼が2杯食べられる料金を払っ
てまでの価値とは何なのだろうか?
それはある種の「贅沢」感なのではないかと思う。
出汁をとるのに丁寧に処理した豚骨や鶏ガラなどを何時間もかけ
て煮出すらしいし、それも銘柄ものだという。また厳選した海産
物の出汁を加えたり、塩や醤油も何やら曰く付きを使っていたり
する。その味を見極めることができるような味覚の持ち主は少い
筈だ。周りを見ると味見をするようにゆっくりとスープを啜り、
麺を噛み締めながら自分なりの講釈を披露し合ったりしている。
丼一杯に手間ひまと資金をかけているという味わいを探り、ささ
やかな贅沢を共有しているという気持ちになることができるとい
うところに、ラーメンブームの根底があるのではないか。
…なんていうことを思いながら、アイヌ文化フェスティバルの会
場に向かった。

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わたしたちはどこへ行くのか

 少し前の話になるが、9月23日まで国立近代美術館でゴーギャ
ン展が開かれていた。どうせ人が一杯でちゃんと見られそうにな
いだろうと、閉幕近くまで躊躇していたけど、やっぱり行ってみ
た。予想通りにラッシュ時の電車並の混雑だった。
さてお目当ては万人共通の、あの大作「我々はどこから来たの
か、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」だった。
そうだよなあ、じっくり自分のペースで鑑賞なんか出来ないよな
あ、と思いながら人群れの流れに乗って眺め過ぎるしかなかった。
…ということを、1カ月以上過ぎた今頃になって思い出している。
すぐには感想がまとまらなかったのだが、もうすでに有名無名の
多くの人がコメントしてきたように作品や作者について語るので
はなく、タイトルを語ってみたいと思う。
 芸術表現というのは、すべからく「我々はどこから来たのか、
我々は何者か、我々はどこへ行くのか」への自問自答の軌跡が
表されたものだ。それは絵画でも音楽でも文学や写真や映画など
でもジャンルを問わず共通して言える。芸術家たちは誰もがそう
気付いているけれど、敢てそんなことは表出しないものだ。
では何故ゴーギャンはそれをストレートにタイトルにしたのか。
病んでいたのだと思う。帰郷するも失意の後の1895年、二度目
のタヒチ行きの後に描かれたあの作品は精神的な遺言と位置づけ
られているとのことだが、制作中は貧困と健康悪化や娘の死など
などで最悪の精神状態だったらしい。
 話が飛ぶようだが、つい最近の加藤和彦さんの自殺と関連させ
て考えてしまう。加藤さんの場合その自死の背景や真相は、遺書
らしきものを残されたというごく親しかった人でさえ未だに判然
としないのではないだろうか。テレビニュースで耳にした或る証
言によると、音楽ではやることが無くなった…とか言っていたと
もされるが、それは違うのだと思う。
理由が何だったかは分からないけれど、多分あの命題「我々はど
こから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を問い
自ら応える作業に躓いてしまったのだと思う。そして自ら命を断
つという表現でしか答えを出す事ができなかったのだろう。
 加藤さん、あなたが行ってしまった世界がどこなのか、お分か
りになりましたか?

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ジュンパ・ラヒリ、世界文学の方向性

 ピューリツア賞作家ジュンパ・ラヒリの最新短編集がいい。
邦訳は第一短編集「停電の夜に」長編で映画化もされて話題に
なった「その名にちなんで」、次いで出たのが「見知らぬ場所」
だ。カルカッタ出身のベンガル人を両親にもつロンドン生まれの
ラヒリはアメリカ東部で育ち、結婚して今もニューヨークに暮ら
している。その作品はアメリカに暮らすベンガル人移民第一世代
から第ニ世代をとりまく世界を描いていて、出自、民族性、家族
というテーマで一貫している。
ラヒリのテーマは私が求めるテーマと重なる部分が多く、前にこ
のブログで紹介したナイジェリア出身のアディーチェとともに注
目している。二人がいずれも女性で、アメリカに暮らしていると
いうことは偶然ではないような気がする。それは、元々が移民に
よって形成されたとはいえ、当初とはかなり異なる人種構成と社
会背景を持つに至った現在のアメリカあってこそ生まれた文学だ
ということが一点。それぞれの出身文化がアジアのインド、ベン
ガルとアフリカのナイジェリア、イボであるといことが二点目。
さらにこれから子孫を孕み育てる母性を持つ存在であること。
つまりDNAを伝播してゆくメディアだということが三点目だ。
 戦争の世紀と呼ばれる20世紀から、今この21世紀は壊滅か存
続かの境目に来ているのだと思う。もしここに何かの希望を探す
とするなら、そのヒントは彼女達の描く世界のなかにあるような
気がしている。21世紀の世界文学が目指すべき方向性のカギが
あるように感じている。
 戦争、民族性、家族、移民というテーマに関連して、私の拙著
「マッサラーマ・ソマリア」というノンフィクションが、講談社
のノンフィクション誌「G2」のweb版内限定掲載のG3という
コーナーで連載されることになりました。掲載開始は11月上旬の
予定です。はっきりしたら改めてお知らせします。

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浪人のボヤキ

 4月末に失業して、いまだに職が見つからない。
失業給付の期間180日が今月末で終わる。焦っている。
給付を受けるためにHWへは通っているが、ハローのハの気配も
無いままにここまで来た。職安が職業を安定的に供給する斡旋機
関ではないことはあまりにも自明なので、ウェブの求人サイトと
か幾つかのHPをこまめにチェックしているが、特に私のような
中年と高齢者の中間の世代にとって、このご時世で今の時点での
失業は致命的だ。帰国以来殆どの時期をフリーランスでやってき
た訳なので元の潜在的失業者状態に戻っただけなのだが、これま
でで最悪に厳しい。
 このところ毎日聞かされる電車の人身事故。あれは多くが飛び
込み自殺で、多すぎてニュースにされることも少ない程だったの
がニュースにしないことにはいかない程に多くなってきてしまっ
たようだ。私が飛び込むような心境になっている訳ではない。
今の世相もかなり切羽詰まっているということが言いたいのだ。
 そんななかの政治がらみのニュースでは民主党政権のもたつき
を云々しているが、本当にマスコミはバカだ。
無血クーデター並の政権交代が起きた訳なのだから、まずは前政
権の負の遺産を整理することで精いっぱいではないか。しかも国
民のマジョリティからの付託なのだから、とりあえずは運営の透
明性にだけ眼を光らせながら見守ることだ。来年度までは具体的
な成果が出て来ることを期待してはいけないだろう。
 八ツ場ダムについても、地元民はどうしてああも頑なのだろう
と思う。本当は建設に反対していたのじゃなかったの?前政権と
官僚に愚弄されてきた挙げ句に仕方なく同意しただけだだろう。
また振り回されては堪らない、という心情の部分だけで駄々を
コネるのではなく、この国の行く末を見据えて考え、発言・行動
して欲しいものだ。ただし民主党も説明が全く足りていない。
前政権のような高飛車な態度ほどではないが、政権を取った途端
にあやふやで不透明になるようでは先が思いやられる。
 マニフェストに拘泥するのもおかしい。財政面では実効資金の
ことも問題にされているが、今でさえまだ不明な事が多いのに野
党時代には分からない事の方が多かっただろう。やってみなけれ
ば分からない部分も多い筈なのだから、すぐには出来ない事は出
来ない、修正が必要なことは修正するとどうして言えないのか。
分かって来た事を開示し、政策推進の優先順位をはっきりと打ち
出して説明することのほうが、貧困率の計算などしているよりも
やるべきことだと思う。

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始めて乗った都電

 都内に出る用事があって午後に時間が出来た。浜松町からどこ
を通って帰ろうか。京浜東北線か山手線。上りのホームには同時
刻の発車表示が出ていたので、早く来た方に乗ろうと考えた。
京浜東北線のほうが数十秒早く入って来たので乗り込む。
さてどこで降りて乗り換えよう。東京か上野か、もっと北上する
か…その昔友人が住んでいた頃一度だけ降りた事のある田端でも
山手線に乗り換えることが出来る。同じく一度だけ、妙な行きが
かりで夜も更けた場末の居酒屋に繰り込んだことのある赤羽から
埼京線に乗り換えという手もあるなあ。
と、王子の名前が眼にとまる。これも一度、仕事で北区の役所を
訪ねたことがあって、駅前を都電が通っていたことを思い出した。
意外や意外、これまで都電に乗った事がない。
決まり。王子で都電に乗ろう。
 都電荒川線は結構な距離を走っている。早稲田から三ノ輪橋ま
で29駅あって、料金は区間無し一乗り160円。安いではないか。
祝日とか休日は違うかもしれないが、平日の午後の都電はまるき
り生活路線で、何の用向きか一駅だけ乗っていく婆さんがいたり
ローカルそのもの。そうか、トゲヌキ地蔵の巣鴨もこの路線だ。
最近は一部で散歩ブームがあるそうで、土地のアウラを訪ねる旅
なんていうのをやってもいいか。
雨模様だったので今回は車窓から通過しただけ。
都営まるごとキップというのがあって、都営地下鉄、都営バスを
含めて1日乗り放題700円という。今度は途中下車しながら歩い
てみよう。

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共鳴と共振

 東京国際科学フェスティバルというものが開催されて、その
イベントのひとつ「最新宇宙を語る・奏でる」という講演に行
った。
 今の世の中の状況には、なかなか心を壮大にしてくれる話題が
少ない。子どもの頃に見上げた秋空の深さやアフリカで息をのん
だ満点の星々。宇宙と向き合う自分を意識してみたくなったのだ。
 電波天文学、宇宙論、初期宇宙論を専門とする3人の研究者が
話した。彼らは大学の研究者であると同時にサイエンス・コミュ
ニケーターという呼ばれ方をされていて、宇宙に関する知識を分
かりやすく伝えているという。
それぞれの話題は、暗黒星雲と暗黒物質、ビッグバンとマイクロ
波、反物質についてで、たいした知識も無い私にも理解し易いよ
うに工夫された講演で、とても興味深く聞いた。
そしてもう一人、イギリス人のMark Lewneyという物理学博士
がエレキギターを使ったパフォーマンスを行った。
ギターの弦の振動と宇宙の真理にどういう繋がりがあるのか、な
んて考えた事はなかったが、いわれてみれば納得がいく。
 先の3人の講演を含めたいくつかの論点のなかで、ハタと感じ
るものがあった。それは、人間を含めた生き物や物質・宇宙に遍
在するすべての物は共鳴と共振で関与しあっているのだというこ
とだ。
 物質は最小単位である素粒子の振動による波長によって成り立
っているわけで、光も音もまさにその波動が可視化・可聴化した
ものなわけだ。そして光や音以外にも、私達は多様な波動にとり
まかれて様々に影響を与え合っていて、生物も非生物もお互いに
何らかの共振関係のなかで存在している。
 人が音楽や絵画、写真や映画に触発されてに特別に感応するの
は何から由来しているのだろうと思い続けていた。
それは人間が唯一感じる事の出来る感応器官、耳と眼が捉える事
のできる波長あってこそなのだ。

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