« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

脳がフリーズ 1

 アフリカから日本に戻って来る前、妻の親族が移り暮していた
アメリカに妻子を暫く預けたことがある。(本当は前妻だけど
面倒なので妻と記す)
そして日本の住まいを確保していよいよ呼び寄せようとする直前
妻が癲癇のような発作をおこして倒れたという知らせが来た。
調理中に台所で突然倒れ、意識を失ったまま救急車で運ばれて入
院した。当時の妻には、生まれて以来そうしたことが起ったこと
はない。担当医に聞くと、調べたが原因は不明だという。
 癲癇は『種々の病因によってもたらされる慢性の脳疾患であり
大脳ニューロンの過剰な放電から由来する反復の発作(てんかん
発作)を主徴とし、それに変異に富んだ臨床ならびに検査所見の
表出が伴う』(wikipediaから、WHOの定義による…とのこと)
原因は脳の損傷や神経の異常とされているが、多種多様な誘因が
があるとされていて、根本的な原因を特定するのは難しいらしい。
ただ言える事は、脳内サーキットの故障でシステムがフリーズし
た状態だということだ。
これはPCがこれほど普及し、自分でも多少使える今だからこそ
理解出来ることで、20年前の自分にすんなりと分かったかどう
か疑問だ。コンピュータは当初、電子計算機とか電子頭脳とか
呼ばれていたことを考えれば、脳の緻密な回路の科学的な働き
を模したものだということに改めて思い至る。
 パソコンを扱うようになった頃、私の周辺では何故か熱心な
Macintosh愛用者が多くて、最初に手に入れたのはMacだった。
今はそうではないし、扱い方が不馴れだったこともあるだろう
が当時のMacはしょっちゅうフリーズしていた。
脳がフリーズした状態の人間の意識というものはどうなってい
るのだろう?その間の意識がトンで、記憶もないのだろうか?
物音は聞こえるのだろうか?…
 妻が日本に暮らすようになって半年ほど後、私が出張で不在
中に発作が再発した。
病院の専門医を訪ねMRIなどを含む様々な検査をしても、原因
は特に判らなかった。そして投薬治療と定期検診が始まった。
発作は1.5〜2か月に一度の頻度で繰り返し起きるようになった
が、いつも私の不在中の出来事で、それがどんな様子なのか目
にした事は無かった。
そんなとき、発作を目の前にした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「ノリピー事件」現象

 これはひとつの事件ではなくて、それをとりまく現象だ。
NHKを除いて殆どの民放放送局は8月3日以後、1日も欠かさず
朝から晩まで酒井法子の覚醒剤事件を繰り返し伝えている。
これはもうニュースではなく、断片的に出て来る取り調べ情報と
ゴシップで構成された「お知らせ」でしかない。
そしてそれはここに来てついに出生の秘密や生い立ちに及んだ。
事件を起こした本人の自業自得と言えばそれまでとはいえ、なに
やら2004年のイラクで起きた日本人人質事件にも似た「生け贄」
化がほの見える。
 マスコミがこんな事件に、こんなにもヒステリックに高揚する
のは何故だろう? 
1年越しの衆院選も間近だというのに、ほぼバラエティー番組化
しているニュースではいつもトップニュースに近い扱いで「ノリ
ピー事件」関連のお知らせを垂れ流し続けている。これに辟易し
ているのは私だけではない筈だ。
同じく薬物がらみでなら、人が亡くなった「押尾 学事件」のほ
うが継続して掘り下げるべき問題を含んでいるはずだ。
訳知り顔で「売れるから」「大衆が求めているから」などとホザ
く輩も居そうだが、それは間違っている。他の、伝えるべき多く
のニュースを蔑ろにしたままでいるからだ。あの事件には、毎日
多くの時間を割いて長期に渡って伝えるバリューは無い。
しかもそうした意見を口にする人物は極々僅か(私が見た限りで
は、とても控えめに一言だけコメントした1名のみ)だ。
 今の日本では、マスコミやそこで発言する者だけではなく政治
の場面でも、こうしたネガティブなメッセージの連鎖が続いてい
るのが気にかかる。そしてまた辟易する。
選挙運動では誹謗と揶揄のネガティブ・キャンペーンばかりで、
未来への展望と希望を語る者は居ない。
粗捜しと表層的な事象にしか目を向けなくさせて、本当に大事な
事や本質から遠いところでなんとなく日を過ごす。そんなことが
まかり通ってはいけない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

未来を背負う子どもたち

 前稿からの関連で、映画「未来を写した子どもたち」の背景に
なっている身を売る女たちとそのこどもたちの生活環境について
アフリカの場合と比較して書いてみたい。
 私の知るアフリカ20か国の限りでは、娼窟みたいなものが集中
する特別な地区が形成されている例は無い…いや、思い出したら
あった。インド系が多いモーリシャスにインド系の女たちが集ま
った商売宿があったのだ。或いはインド文化にはそうしたものが
生まれる背景があるのかもしれない。
それは置いといて、アフリカの多くの国の町々で生活のために身
を売る女たちの姿を見ないことなはかった。皆それぞれに安い部
屋を借りて暮らしていて、それらは住宅街のアパートだったり貧
民街の長屋の一室だったりする。
昼間に職を持っている者もいれば専業の者も居るが、言わば自営
業者で、仲介して上がりをピンハネする者は私の知る限りでは前
述のモーリシャス以外には存在しない。
これはアフリカ人の精神性なのかと思うが、そうした女たちを集
めて組織的に利益をあげるということは彼らの倫理の上では発想
されないのだと思う。(また逸れるが、営利目的の幼児誘拐など
も無い。これもアフリカ人の倫理観だと思う)
アフリカで女が身を売るケースの殆どは一過性のもので、他に仕
事が無いとか夫が見つかるまでのツナギということが多い。
プロの娼婦として何年も続ける例が無くはないがごく限られる。
 さて、そうした女たちの子どもといえば、女が若い場合は故郷
の母親(子どものお祖母さん)に預けている場合が多い。子ども
が或る程度大きいとか暮らしに余裕がある場合などには、一緒に
暮らしていることもある。
シングルマザーが特別なことではないので、そんな親や子が蔑ま
れたりイジメられたりすることは無い。でもそんな母子は周辺に
幾らでもあるので特に保護されたり支援されることもない。
社会制度上も一般的な社会環境の上でもそのようになっている。
 彼女達の子どもたちは物心がつく頃になると、みんなそうした
母親の事情を知っている。そうした境遇に満足することはないが
そのことで僻んだりすることもない。高望みすることも卑下する
こともなく、確信の無い可能性だけを頼りに健気に生きる。
アフリカには生まれ落ちた境遇を天命のように受け入れる精神性
がある。一方で何か出来そうな事があれば無理かもしれなくても
やってみようという「ダメモト」精神というものもある。
人によってはそうした態度を楽天的と呼ぶが、それはあまりにも
言葉を短絡的に使っているのだと私は思っている。
 実生活上でインドの事はよく知らないが、東アフリカで体験し
たりインド映画からの知識からすると、或る部分でアフリカとも
共通する気質があるのではないか。それは「マアージブール」
という単語が表すもので、「仕方ない」というような意味だと解
釈している。
それは単純な「諦め」ではなくてアフリカの「諦観」と「ダメモ
ト」をない交ぜにしたような感情の筈だ。
とにかく、そうしたアフリカとインドという異なる精神風土のな
かで、社会階層を問わず、未来を背負う子どもたちを大切にしよ
うと働きかけている人たちがいる。
 同じような事は世界各地の途上国でも様々な形で展開されてい
るのに、日本の私たちは子どもをとりまく環境を政争や事業の対
象としか考えない人たちに委ねてしまっていると自戒する必要が
あるのではないか。
「未来を写した子どもたち」は、未来に目を向けなくなった日本
を見つめ返している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

未来を写した子どもたち 1

 気になっていたドキュメンタリー映画「未来を写した子ども
たち」のDVDがレンタルされていたので見た。
インド、カルカッタ(今はコルカタとなっている)の娼窟地区
に生まれ育つ子どもたちが、イギリス人女性写真家が始めた写
真教室に通ううちに変化して行く。
きっかけは子どもたちに渡されたカメラ。気になる被写体を好
きなように写した写真が注目を集め、写真展開催や写真集出版
によって世界中から寄付金が募って行く。それは彼ら自身と、
同じ境遇に暮らす子どもたちのための教育基金として活かされ
てゆくことになる。
 私が記憶する限りでも、似たような試みは世界の幾つかの地
で試みられた筈だ。
どうしてこの例は成功したのだろう?と考えた。
子どもたちの撮った写真がいろんな意味でセンスに富んだもの
だということは言える。でもそれ以上に、地区の人たちが受け
入れたという環境が素晴らしいのではないか。
写真家は初め、娼窟の女たちを被写体にするために住み着いた
という。それまでに何年も掛かったらしいが、まずそんな写真
家を受け入れた地域社会がある。そして後に女たちよりもそこ
で育ちゆく子どもたちに着目したことも大きい。
これまでも娼婦を題材にしたドキュメント写真は数多いが、そ
れらは言わずもがなな訴求力しか伺えないものばかりだった。
それは鑑賞者から見て、同じように生活する一個人としての共
感は薄くならざるを得ない。
そこに暮らす子どもの表情や行動、親との関係を目にすること
は言葉で訴える以上に、その社会を写すということがよく分か
る。そして「希望」と「思い」が生み出すものの大きさと素晴
らしさに改めて気付かせられる。
 言いたい事はいくつもあるが、「魚の目」という魚住 昭の
ウェブマガジンに連載中の、山口二郎による「現代政治の深層
を読む」という文章の最新稿の一部を引用させてもらいたい。
《大きな目標というものは、非現実的で到達不可能に見えるも
のである。マーティン・ルーサー・キングやネルソン・マンデ
ラが黒人差別撤廃を叫んだ時、誰が達成可能な目標だと思った
だろう。ジャン・モネが1つのヨーロッパを唱えた時、誰が到
達可能な理想だと思っただろう。そして今、アメリカのオバマ
大統領が世界の人々の期待を集めているのも、核兵器のない世
界を目指すことという当面不可能な目標を掲げて、行動を始め
ようとしているからである。一見困難でも、高い理想に向かっ
て前進する政治家の姿に、人々はよりよい世の中を作ることが
できるかもしれないと勇気づけられるのである。まさに、一見
不可能でも、多くの人々がそこに向かって進みたいと思えるよ
うな目標を示すのが、思想の力である。》
 未来を写す想像力とは、そういうことなのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

花と兵隊

 8月が近づくと戦争関連の話題が取り上げられるが、8日から
ロードショー上映が始まったドキュメンタリー映画「花と兵隊」
の試写会に行く機会があった。
日本映画学校を出た30代始めの監督が、師である今村昌平監督
がテレビ番組として制作した「未帰還兵を追って マレー編/
タイ編」を引き継いだような作品だ。
 終戦後も現地に留まって生活の場として生きてきた未帰還兵
たちは、高齢になった今どのように暮らし、思っているのかを
探って訪ね歩く。その手法は何も新しいことではないし、むし
ろあまりにオーソドックスで正攻法だ。その無骨さが作品を魅
力的にしている。
今時あのように正面からぶつかる姿勢は少ない。そしてそこに
救いを感じるのは私だけではないと思う。
 上映後の話で松林要樹監督は言った。「僕達は戦争を体験し
た事はありません。でもそれは戦争を知らないということじゃ
ないと思う。」
私も同感する。1979年生まれの監督は、20世紀から引き継い
で新たな局面に入っている現在の世界の戦争状況を様々なかた
ちで知らされている。そしてまた彼なりの思いで彼の祖父世代
の戦争を知ろうとしているわけだ。
シラケ気味に「戦争を知らない子どもたーちーさー」と歌った
長髪世代よりも遥かに戦争と向き合っている。
 戦後10年経って生まれ、長髪世代の一番末のほうに育った
私でさえ、子どもの頃には福岡の地方都市の駅前で傷痍軍人
たちの姿を目にした事を覚えている。
木綿の白い浴衣風のものを着て頭には兵隊帽を乗せ、或る者
は足や腕や視力を失っていて、仕事が出来ないので道行く人
からの施しで日を繋いでいた。それは当時の私には見るのが
恐いものだった。
映画を見た後で何故かそんな情景と思いが蘇った。
そうした情景は、内戦下ソマリアの、銃声鳴りやまない街で
取材の日々を過ごした体験以上に私の心に刻まれているのか
もしれない。
身近な者にさえあらためて戦争体験を聴いたことがなかった
私は、体験談を聴く前に父を失った。母に戦時中の話を聴い
たのはごく最近になってからのことだ。記憶がしっかりして
いて元気なうちに自分史を残しておくように勧めている。
戦争は誰にも深く陰をさすものなのだ。
松林監督にはこれからも、様々な「戦争を知る」作品群を期
待したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

セントアンナの奇跡

 この8月末で閉館になる新宿のテアトル・タイムズスクエアで
スパイク・リー監督の「セントアンナの奇跡」を見た。
まず閉館について。小さいけど見やすく、良い映画を上映して
いたので残念。そういえば最後にあそこで見たのは「WATARI
DORI」だった。集客は難しかったんだろうなあと思う。
通には魅力の作で或る程度評判も良い映画でも客は入らない。
一方では、フジテレビが仕掛けた織田裕二主演の「アマルフィ」
なんかには押し掛けているんだろうな。
閉館特別上映と銘打ってwebのファン投票上位10位プラス4の
14作を22日から連続上映するとのこと。幾つかは見に行こう。
 さて「セントアンナの奇跡」。スパイク・リーらしい導入に
引き込まれる。でも動き続けるカメラがちょっと煩わしい。
編集がうまいなあ、ダイアローグがいいなあと思いながらテン
ポ良いカッティングで第二次大戦下1944年のイタリアに飛ば
される。結構リアル感あふれる戦闘シーンから今度はファンタ
ジーへ、そしてまた戦闘があって現代へ戻り最後にまたファン
タジー的結末という、あの監督にしては随分マイルドな作だ。
 それでも、端々に昨今の世界状況を反映する言葉やシーンが
ちりばめられていて、直接的ではない方法でスパイク・リー監
督らしさが表現されていた。
オバマ大統領の誕生と変化するアメリカと関連づけて、どちら
かというと過激な監督も融和と共存を模索している。とチラシ
解説には書かれている。そういう部分もあるかもしれない。
 いずれにしてもファンタジーに包まれたスパイク・リーなら
ではのメッセージが詰まっている作だと思う。
それにしてもイタリアの子役はいいなあ。この作のアンジェ
ロ役が素晴らしい。そしてイタリア人もドイツ人もアメリカ人
も、総じてキャスティングが絶妙。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

犬と鬼 2

 あまりに気力が失せるので、次は「犬と鬼」というタイト
ルについて書いてみる。
中国の「韓非子」に出ている故事から取ったという。
絵に描きにくいのは身近にあって見慣れている筈の犬のよう
な存在で、意外と正確に捉える事が難しい。逆に派手で大げ
さな姿貌をしている想像の産物である鬼は、却って誰にでも
描きやすかったりするものだという事らしい。
ナルホド。そういう視点で日本の戦後を見直したというのが
この評論なのだが、もうひとつ。どこにでも居る犬がいつの
間にか鬼のようになってしまっていたという謂いにもなって
いるようでもあるし、日常の暮らしに直結した施策が犬で、
大げさな形ばかりなハコモノが鬼ということでもある。
そしてこうした「犬と鬼」的な対比の顕在化に「寄与」して
きたのが、官僚による様々な働きとそれを利用し・利用され
続けてきた政治だということだ。
 この著作ではこのような日本の近過去と現状を訴えるだけ
で、ではどうすれば変化が可能かという処方への言及は無い。
その結びの言葉は「家路を探し求めるーこれが今世紀の課題
だ。」となっている。「家路」とは墓場への道か?
はっきりと言って処方なし、ということなのだ。
ガラガラポンのカタストロフという知恵も意欲も不要な他力
本願ではなく、少しでもまともな社会を目指す志だけでも持
ち続けていたいものだ。

 ということで、これからはネガティブな物言いは止める事
にして、ポジティブにいきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

犬と鬼 1

 Alex Kerrの評論「犬と鬼ー知られざる日本の肖像」(原題
Dogs and Demons 訳は2002年 講談社発行)というものが
出版されていた事をつい最近知って図書館で借りて読んだ。
果たして、私が感じたり思ったりしていることの殆どが述べら
れていた。ページごとに相づちを打つことばかりで、気になっ
ていたことも分かったりした。
 たとえば国債について。国庫が逼迫するとすぐ発行される
この国債は言わば国庫の不足というか追徴を賄う打出の小槌
みたいだが、発行すれば自動的に買い手が付くという不思議
が理解できなかった。
一般国民にも売られているようなので一部は市中銀行や証券
会社が買うかもしれないが、右から左に買っているのは一体
どこだ! と思い続けていた。
何と大蔵省じゃないか!!財政投融資なるカラクリがあって、
その財源の大元は郵便貯金とか年金基金とかだそうだ。
国民の財産を使って、政府が発行したものを自分で買ってい
るのだ。蛇が自分の尻尾を飲んでいるようなものじゃないか。
政府も学者・識者も怖がって口にしないが、郵便貯金基金も
年金基金も、とうに元本割れしているに違いない。
誰が誰の承認を得て、どのように融資しているのだ!誰もその
詳細を把握していないし、その運用に責任を取る事は無い。
投融資とは投げ捨てているということじゃないか。道理で国の
借金と言われるものが秒単位で膨れ上がり続けている訳だ。
日本とは発展途上国ではなく壊滅途上国でしかないということ
がよく理解出来る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ソマリア、ザイール、日本

 今の日本を見ていると、ブルース・ウィルス主演 ナイト・
シャマラン監督の「The Sixth Sense」を思い出す。
自らが既に死んでしまったアッチ側の人であることに気付かず
ウロウロしている。そう考えると1か月後の選挙に向けての動き
も、生きながら墓の中にいる者の悪足掻きのようにも写る。
この政治のテイタラクは、すでに20年間にわたって政府不在の
侭になっているソマリアや、経済が破綻して久しい旧ザイール
と変わる事がないのだと思う。
 ソマリアが内戦に突入したのは1990年の暮だった。すぐに
(というか既にそれ以前に)政府は機能停止してしまったから、
1か月も保たずに元大統領が敗走するまでもなく国民は頼る国家
が無い状態で自活するしかなかった。
国境はあっても政府が無い訳なので税関は不在。そこで、地盤を
持つ勢力は独自の通関コントロールで収入を得ることを思いつい
たのだった。そうした流れで、治安をコントロールするから金品
(=みかじめ料)を払えとなって現金や物の収奪に広がった。
通貨は中央銀行から略奪されたものが出回り、その中には何年か
前に流通が止まっていた旧貨幣も含まれていた。
 旧ザイール(現コンゴ民主共和国)ではもの凄いインフレで通
貨単位が何桁も増えて行った。地方の町では道端の物売りさえが
野菜少しに米ドルしか受け取らないような事が起きていた。
そんな風に国民はしたたかに、ただ黙って墓の中に寝てはいない。
…などなど、生きて行かなければならない現実を前にすると、政
府など無くても国民生活は続くものなのだ。
 国家の体裁は整っているものの、社会現象を取り繕う施策しか
打てないのが今の日本で、そんな政府は無くても生活は回る。
アイディアと実行力があれば少しはましな生活が可能だというこ
とでは、今の日本よりソマリアやザイールの方が健全かもしれな
い、と言うのは言い過ぎだろうか。格差が自分の力で乗り越えら
れる社会は今の日本には当てはまらない。
それでも変える事から始めないと、完全な崩壊までずっとこのま
ま墓の中状態は続いていってしまうのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »