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2009年7月

地方都市

 田舎のお盆で九州の実家に行っていたので暫くブログを更新
できないでいました。
 深夜の高速バスで福岡往復。結構キツイかと覚悟したけど、
アメリカまでの飛行機に乗っているのとあまり変わらない。
エコノミークラスの座席も高速バスの座席も、前後左右の間隔
は殆ど同じようなもの。座り続けている時間でいえばアフリカ
までと比べればずっと楽なのだ。
夜行とは言え、高速道路上の車窓から垣間見えた風景はまさに
「停滞」そのもの。まだ福岡の中心部辺りに都市らしさは見て
とれるものの、それでも経済が活力をもって動いているという
印象は薄い。ましてやいわゆる地方都市では、果たしてこのま
ま維持して行けるのかさえ不安になる。
ようやくアホ太郎が苦肉の解散総選挙をひねり出したが、この
数日前からテレビで流されているキャンペーンには恐れ入る。
「交代は必要か?」と問い「実行力」「政策」を唱っているが、
意味ある政策が無く実行力が無いからこそ交代を切望する国民
がようやく腰を上げてきたのだ。
実家のある県庁所在地のHWを覗いた。求人が少ないことは察
していたが、求職者そのものが少なかった。東京では私の暮ら
す都下のHWでさえPC検索でも数十人待ちは当たり前なのに、
あちらでは待っても数人程度。田舎で失業したらそのまま引退
するしかないのだろうか。
ニュースではこの半年で自殺者が過去最悪のペースで増え続け
ているという。

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追悼マイケル・ジャクソン

 忌野清志郎は単なるファンだったけど、MJはちょっと評価が
違う。世代や国境を越えた世界規模のイコンに違いない。
どこかで発言されていたように、オバマ大統領が生まれたバック
グラウンドの一要素にMJの果たした役割は欠かせないと思う。 
それは、彼の生き方や表現を通して、人種や肌の色やイデオロギ
ーを越えて共存することの大切さをアピールし続けたからだ。
整形や薬品を使ったと思われる顔貌や肌の色の変化は、自らの体
を使った究極の意思表示だったのだろうと思う。そして恐らくそ
れが原因で死期を縮めてしまったのではないかなと想像する。
MJは殆ど発言を残していない。無駄口を叩くことなく、歌い、
踊るなかにメッセージを発し続けた。
よく知られているWe are the world('85) Black or white('91)
Heal the world(92)などは歌と作詞・作曲だけでなく
ビデオ・クリップでも印象的な作品だが、今回改めてジャクソン
ファイブ時代からの歌を聞き直して、じつはもうあの時期に同じ
ようなテーマが芽生えていたのではないかと気付いた。
I'll be there('70) Got to be there(71) Ben('72) Happy('73)
など、勿論のこと作詞作曲は別人ではあっても彼の目指す音楽の
片鱗が伺える。
そして何よりも心を撃つのはその声だ。
「天使の歌声」という言い方があるが、まさにそれだ。永遠の少
年性を秘めたビブラートがぐいぐいと滲みてくる。
ともすると80年代以後のヒットばかりが取り上げられがちだが、
私はMJの本随はあの辺りにあるのではないかと思う。
多分MJはもう、表現者としての活動は終末期を迎えていたのか
もしれない。オバマ大統領の就任を目にして、彼にはやり残した
ことはあったのだろうか? イギリス公演は過去の清算のつもり
だったのではないかとさえ思う。
多分生涯最後となるであろうツアー直前の急死は、或いは…
予期された投薬事故では…
そんなことを感じながらHappy('73)を聴いていた。
涙がこぼれそうになってしまった。

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お先真っ暗

 先月、久しぶりに「朝まで生テレビ」を見てみた。見たいと
思ったのは“新たな貧困の今”というテーマが気になったから。
いつもの評論家たちに自民党と民主党から2人、共産党から1人
という人選は近付く選挙を見越してのテレビ的盛り上げか。
それでも湯浅誠と雨宮処凛が、今何を言うかに興味があった。
この半年で貧困の質も規模も深まっている事が、予想通りだと
いうことがわかる。
 求人と就職状況で言えば、私が定期的に通うHWには相変わ
らず人が溢れている。見た目の感じでは、この4月時点よりは
若中年層と女性の姿が増えて来ているのではという感じもして
いる。
HWの対応はお決まりの雇用主側の都合主導で、「条件は見て
いますね。これでいいですね」と確認して右から左に紹介状
(そのHWが斡旋に手を貸したという状況証拠を作るためのも
ので、実質的には紹介の効力は無い)を発行するだけ。
求人に応募した者の何割がどのように職に就いたのかもはっき
りしはしない。よく引き合いに出される有効求人倍率なども、
ちっとも意味が無い。失業者がどのようなスパンでどういうふ
うに就業出来ているかの実体が反映されるものでは全くない。
ついでに言うと、霞ヶ関の退職官僚たちがこうした体感無いま
まに、てめえらだけのお手盛り斡旋機関を税金で運営するなど
はもってのほか以外の何物でもないことは明らかだ。
 番組内容に戻ると、与野党のゴタクなどではなくてもっと現
実を知らしめることに徹して欲しかった。一部の観覧者の声は
出たが言わずと知れた中途半端で、さらに厳しい現実が数多く
潜在しているはずだ。
 ああいったテレビ番組を作る事に意味が無い訳ではないが、
最も必要なのは、あれに開眼され触発された一般国民が自分で
動き出すことではないか。地方の首長たちの動きがあるが、特
定の政党支持ということに落とし込まれるならば選挙運動の片
棒担ぎに終わりそうだ。
 政党というものは議会内の勢力図確保が第一なのだから、議
会制民主主義はそもそもが公平な政治を押し進める基盤とは成
り難いものだと思う。政党ではなく、脱政党で個々の政策と議
員個人の考え・意欲・行動力が反映されてこそ民主政治は意義
がある。
盛んに言われるアメリカ追従の2大政党モデルは、どうしても
マイノリティの立場を掬いあげることが難しくなるわけで公正
生を欠く。それが格差を産み出している一因であることは間違
えない。
 政党制民主主義を機能させるならば、多党制でより多くの多
様な意見を掬いあげることができるようにするべきだ。でも一
時期の有象無象のミニ政党乱立のような失敗は見たくない。
当時海外に居た私は、一時帰国した時にバカみたいな政党が大
手を降っていることに驚いたものだ。冗談かと思った。
その頃一体何が起きてどうなったのか誰も総括していないのは
いつもの日本的現象だ。政治も経済も、誰も真摯に振り返るこ
となく、反省も無ければ責任を問う事も無い。
 マスコミは総選挙の時期はいつかなどを話題にして時間を浪
費しているし、所詮お笑い芸人でしかない東国原宮崎県知事と
自民党の無為な駆け引きをいつまでも取りあげ、本当にバカば
っかり。
ようやく、現行の自民党政治だけは止めてみようという動きが
地方の首長選挙から見え出したことだけがせめてもの救いか。
とは言えお先真っ暗の日本には変わりないのだ。

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扉をたたく人〜人権迫害の現実〜 3

 ナイロビでのスクリーニングが始まり、緊張は一層高まった。
妻は相変わらずどこかへ出かけては夜遅く帰宅する日が続いた。
そして、数週間続くというスクリーニングが2周目に入った頃、
きっぱりとした口調で「明日行くから」とだけ私に告げた。
果たして何か当てがあったのかどうかは知らない。妙にすっき
りとした、思い残すものは無い、といった顔つきをしていたこ
とを覚えている。
 その日の朝、私が車で会場まで送った。
ナイロビの東、ソマリア人地区の区長事務所と並ぶ集会所には
多くのソマリア人が集まっていた。
表には順番待ちの長い列ができていて、カーキ色の制服を着た
GSU(General Service Unitといって主に国境や政府の施設
などの警備の任につく警察と軍隊の中間のような治安維持部隊)
が群衆整理のために辺りに睨を利かせていた。
集会所の中も人で一杯だった。奥のほうに長机があって、その
むこうに長老連とおぼしき数人の男達が並んで座っているのが
窺えた。
 やや緊張した面持ちの妻は努めて朗らかさを装いながら見知
った顔を見つけては声を掛け、列についた。私は彼女が同じ笑
顔のまま会場から出てきてくれることだけを祈りながら遠くか
ら見守っているよりほかに成すすべは無かった。
妻の姿が集会所の中に入って行った。長い時間、ただ集会所を
見つめながら、その地区の端、空軍基地のフェンス沿いの安ア
パートで始まった私たちの同棲時代のことを思い出していた。
家具といえばベッドと灯油コンロほかのいくつかの調理器具だ
け。そんな生活の後の結婚と出産。出産後の妻の病気と思いも
よらない病気での再入院に泣いた日々。
なんとか子供が成長してようやくアフリカ生活に根が生えてき
た。そんな矢先のスクリーニングに自分達の人生が翻弄されよ
うとしていた。
私はそこに集まった群衆に混じって、大きな渦に放り込まれた
無力感を感じるばかりだった。
 そうした思いはやがて不安と恐怖へと取って変わられた。
何時まで経っても妻は集会所の入り口に姿を表すことはなかっ
た。心配が頂点に達しようかとする頃、建物の裏がザワついた。
そして、見知った若者が飛んで来て言った。
「連れて行かれる。裏に護送車が来て、他の連中と一緒に押し
込まれた」一瞬にして顔から血が引いた。
「追いかけよう」若者は私を促して車へ向かった。とにかくど
こに連れて行かれるか見届け、どんな処遇が待っているのかを
知らなくてはならなかった。
荷台が鉄板で囲われたグリーンの護送用トラックが既にエンジ
ンを吹かしていた。あの中に妻が居る。
動き出した護送車の後について遅れないように車を走らせた。
トラック後部に開けられている50センチ四方程の窓。立った
ままギュウギュウに詰め込まれて、妻はあの窓の金網越しに揺
れる空を見つめているのだろうか。
運転しながらそんな思いで見つめ続けた。

 トラックはやがて郊外の警察署に入って行き、そこでソマリ
ア人たちを降ろした。難民のように着たきりの女や男が力なく
中庭にまとめられた中に、ようやく妻の姿を認めることが出来
た。
そこに何日か据え置かれるのだという。いくら掛け合っても警
官はそれ以上のことは何も教えてはくれなかった。多分彼もそ
れだけしか知らされてはいないに違いない。
なにからなにまでが理不尽に思え、私は言い知れぬ苛立ちと不
安に震える思いだった。そんな私を見つけた妻は、もう腹が据
わったのか、落ち着いた表情で陽の当る中庭から力なく手を振
った。その様子に気持ちを静めた私はもう一度警官に話をつけ、
差し入れを持って来ることを了解してもらうことができた。
 それから毛布や着替えを取りに帰り、2日のあいだ毎日着替
えやら料理やらを運びに行っては処遇を窺い談判を繰り返した。
国境の向こうへ送られる前になんとか仮釈放してもらうことが
出来たのは、夫である私が日本人だったからということも作用
した。そしてその後さらに様々な紆余曲折を経て、有力な政府
関係者からの或るツテで再度のスクリーニングを受けることと
なり、我が家を苛んだ混乱がようやく正常に向かったのはそれ
から二カ月程も経った頃だった。
…以上、『マッサラーマ・ソマリア』第2章より抜粋

 映画「扉をたたく人」から少し逸れてしまったかも知れない。
しかしそこに描かれているストーリーは、全世界的な規模で進
行している人種混交という現実の中で、何が最も尊重されなけ
ればならないかを突き付ける。
現実は厳しさを増しているに違いない。もっと冷酷な体験をし
た人は沢山存在する筈だ。
私も常に扉を叩き続けていたいと思う。

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扉をたたく人〜人権迫害の現実〜 2

 ソマリア人には必ず、自分の血統にのっとる『氏』がついて
まわる。この氏はソマリア族の開祖SAMAALに始まる血統
樹の拡がりに基づいている。サマアルの息子から息子へと続く
血統によってそれぞれの氏がうまれた。そしてこの氏は各人の
名を名乗ることによって確認できるのだ。
 ソマリア人の名前は[親から付けられた名][父親の名]
[祖父の名]というように三つの名が並んでいる。最初に来る
[親から付けられた名]はいわゆる姓名の名で、個々人でそれ
ぞれ変わるが、その前の父系を示す名は女性でも結婚しても変
わる事なく一生ついてまわる。だから父の名を溯ることによっ
て『氏』の血統がたちどころに明らかとなるのだ。
 私の妻はソマリア独立の年でありケニアが独立(1963年)
する前の1960年、両国の国境に位置するマンデラという町に
生まれた。ラクダとともに遊牧をするガアルジャアル氏族だ。
 フルネームはハワ・モハメド・アリ。その父はモハメド・
アリ・ハッサンで祖父はアリ・ハッサン・アビカル。曾祖父は
ハッサン・アビカル・アリン。このように父系を辿って父から
父へと名前を溯っていくと、開祖サマアルまで、アリンに続い
て実に21代にわたる系譜が浮かびあがる。
妻はこの父系を表す名をすべて諳じていた。そしてソマリア人
は皆、伝統として祖先の名前の暗唱を受け継ぐのだという。
 このように各人に先祖の名前を名乗らせることによってその
氏族を判別し、独立以後のケニアに土着の出自を持つ者かどう
か、真性のケニア国民として認められるかどうかを決めようと
いうのが悪名高いスクリーニングなのだった。

 ケニア土着のソマリア系主要氏族の長老たちが指名されて判
別の委員会が組まれ、ソマリア系住民の多く暮らす地区を巡回
していった。18歳以上のソマリア人たちはすべからくこのス
クリーニングを受けなければならず、ケニア国民と認められれ
ばピンク色のソマリ身分証(通称ピンクカード)が発行された。
そこには氏名と生年月日のほかに出身地と氏族名が明記され、
ソマリア人は一般のケニア人が持つID(身分証)とは別にこ
のソマリIDを携帯することが義務付けられた。
ケニア国民と認められなかった者たちは容赦なく護送車に詰め
込まれ、警察に囚監された後に国に還された。
インド洋岸のケニア第二の都市、商業と観光の中心モンバサに
暮らしていた妻の親友は、ケニアで産んだ娘と引き離され泣く
泣く船で送り返されたというが、その生死の消息は定かでない。
 妻はこれを聞くと非常に恐れた。
 自分のガアルジャアル氏族はケニア土着ではない。母親も父
親も早くにソマリア本国のモガディシュとキスマユに移ってし
まい、本人は母方の親戚のもとに育てられた。
その家も若くして飛び出し、その後一人モンバサへ行き、やが
てナイロビに出て自活してきた家出娘なのだった。
長老たちに自分が真性ケニア国民と認められるとは考えられな
いと嘆き、目を泣き腫らして悲嘆に暮れた。
「きっと掴まる。トラックに乗せられて国境の向こう側に放り
出されるんだって。そんなことになったら死んだほうがましよ。
でもイスラムでは自殺は許されないし、子供たちのことも心配」
 そう訴えられても私は何をすればいいのか全く判らなかった。
多くの事柄が賄賂で解決のつくケニアといえども、果たしてこ
の問題にも通用するのだろうか?それに一体どこの誰に話をつ
ければいいのだ?大統領府が直接動いている大政策にどう立ち
向かえというのか?
 妻はそれでも誰かに相談をすると、毎日朝から晩まであちこ
ちを駆けずり回っていた。そうした事情を子供たちは何も知ら
ず、我が家はただただ異様な緊張感に包まれていった。
(3へ続く)

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