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フィクションとノンフィクション〜「翻弄者」を読んで〜

 「絵はがきにされた少年」で第3回開高 健ノンフィクション賞
を受賞した藤原彰生の小説第一作は正直に言って期待外れだ。
体験的題材を小説化しようという発想はよく分かる。でも短編集
「翻弄者」としてまとめられた3作はどれも小説としてこなされ
ていない。
もしかしたら熟成が足りないということだけかもとも考えたが、
どうもそれだけではない。取材も足りないんじゃないだろうか。
表面的でしかなかった出会いでは深まる要素は無いし、それでも
小説的想像力に富んでいればカバーもされようが、そうした膨ら
ませも出来ていない。まるで習作の第一稿みたいだ。
あの状態で出版してしまった本人も問題だけど、練り上げ不十分
でGOを出した編集者の技量を疑う。
帯にある塩野七生の文(帯だから仕方ないけど)は持ち上げ過ぎ
だし、『時代に翻弄され、不条理に疲れ、それでも拠りどころを
手探りする人間たち。』という惹句もはずれている。
こうも貶すのは前作のノンフィクションが賞に値する秀作だった
からだ。
 前に森 達也の小説「東京スタンピード」での失望を書いたが、
あれと似た印象がある。それはフィクションとノンフィクション
に関する問題に繋がっているのではないかと思う。

 フィクションとノンフィクションとを分けるのは想像力のベク
トルと膨らませ方の違いだけだ。
作品を植物に例えよう。どちらもその芽の部分には著作者の体験
とか目にした出来事とかが必ず存在する。その芽が植物に育つ様
を描いたものが作品だ。そして育つ過程や下地・背景のディテー
ルを描く事に力を注ぐのがノンフィクションで、一方そうした要
素に想像力でヒネリを加えて実際の植物とは異なるものを描きあ
げるのがフィクションの作法だと思う。
ただノンフィクションの場合でも、描写の過程で必ず著作者の想
像や意図が組み込まれることは言うまでもない。著者の目や思考
のフィルターを通すとは、そういうことだ。
それを一言で言うと『編集』という作業になるかと思う。
フィクションにもノンフィクションにも編集作業は欠かせない。
ノンフィクションの場合は基本的には時系列を入れ替えたり視点
を変えたりする手管以外は、その成否はほぼ、着想力と取材力と
描写力に委ねられる。最終的に題材を完成させるのは読者の感性
と想像力だ。
でもフィクションで重要なのは作者のストーリーテラーとしての
想像力で、読者はストーリーとして完成されたものを受け取り、
その解釈を楽しむというところにノンフィクションを読む場合と
の大きな違いがある。
そのあたりの実際例は開高 健のあまたの著作を読んでみればよく
分かる。奇しくも藤原はその開高 健の名を冠した賞を受賞したわ
けだが、もしフィクション部門の開高 健賞というものがあるなら
ば、彼の実力では遠く及ばない。

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