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2009年3月

生き辛い時代 1

 少し間が空いてしまった。というのも何あろうリストラで戦力
外通告されてしまって、この4月から失職の憂き目に遭う。
前に生きづらさについて書いたが、またもやその渦中に放り込ま
れてしまった。
この1年半ほど前から、友人が経営する主に海外旅行の格安航空
券販売と秘境専門の旅行を扱う会社に籍を置かせて貰っていた。
経験を活かしてアフリカ方面担当としてやってみないか、との声
に応えての事だった。もうフリーランスでテレビディレクターを
続けてゆくには限界が見えていた時期でもあったからだ。
でも考えが甘かった。格安航空券業界が厳しいものだろうとは予
想してはいたものの、比較的単価が高いヨーロッパ行きの航空券
でも1件あたりの利益は非常に少ない。そんな中で給料の3倍相
当の収益を産まないとペイできないのだという。例えば100万円
の利益のためには月に200件以上売る必要がある。私にはそんな
能力は無い。平均年齢32〜3歳でパソコン処理スピードが私の倍
はある若い職場で、私は浮いていた。アフリカでは旅行のランド
オペレーターや撮影コーディネーターをやっていた私の経験は殆
ど活かす事が出来なかった。アフリカ旅行するという人も、現在
の世界情勢の中で減ることはあっても増えはしない。
もう一度アフリカとの関わりを仕事に活かすようなことをやって
みようと、いわば儚い希望を持っていたわけだが、そううまくは
いかないものだ。
 で、次に何をする…と考えた。

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アフリカの道路事情 2

 夜降った雨が止んで、朝早めに出発した私たちはぬかるんだ登
り勾配の山道をゆるゆると進んで行った。登りきってホッとする
と下りはすぐにカーブしていて、そこにトレーラーを繋げたトラ
ックが止まっているのが見えた。片方の車輪は路肩に突っ込んで
いて車体の半分は埋もれている。抜け出そうともがいた結果が、
より深く地面を掘り下げて埋もれてしまったのだという事が分か
る。その少し先では反対方向から来たトラックが、同じように地
面に埋もれてしまって立ち往生していた。いずれにしても2台の
トラックが行き交うほどの道幅はない。どちらかのトラックが動
いてくれない限りはどちらともに進行する余地はない。待つしか
ないのだ。
暫くすると轟々と音を立てて1台のトラックがバックしてきて
ぬかるんでいないギリギリまで近付くと、荷台からロープが放り
投げられた。どうやらこちら側のトラックを引っ張るつもりらし
い。立ち往生しているトラックの車輪の前後のぬかるみに小石や
木切れがいくつも放り込まれて、何回もやりなおしを繰り返した
後ようやく引き出されたのはそれから1時間以上経った頃だった。
しかしそれで安心していては駄目だったのだ。
こんどは行く手に4〜5台のトラックが止まっているのが見えた。
何人もの人が道端に屯している。事故だ。道の左側が急勾配の谷
になっていて、下の森に黄色いトラックが転がっていた。ぬかる
みを避けようと路肩に寄り過ぎて緩い地盤を崩してしまったよう
だ。しかしこの渋滞は事故のせいではなかった。
私達のドライバーが先の方の様子を見に歩いて行った。30分経っ
ても戻ってこない。私も見に行ってみた。なんと渋滞している車
は10数台もあった。その殆どがトラックや中型のピックアップ
だ。先頭にどうしようもないぬかるみに嵌まり込んだトラックが
いた。荷を満載したトレーラーを引いた大型トラックで、トレー
ラーごと陥没した道路の底にいた。
スタックすると抜け出すために道路を掘り返す。その後で雨水が
溜まってぬかるみが広がる。またスタックして堀り返す。これを
繰り返したのだろう。いまやその道路は全長10メートル以上はあ
るへこみとなっていて、掘り返された土が路肩を丘のように盛り
上げていた。「大型トラックがすっぽりと陥没してしまう程の穴
が続いている道」がそれだとやっと納得がいった。
穴の底、トラックの下に人が潜り込んでスコップを振るいながら
土を掻いている。これでは駄目だ。待っている他車の人たちも悠
然と構えている。石を積んだカマドに鍋が乗っていて、もう何回
も煮炊きを繰り返した跡が見えた。近くの住人は路傍に簡易食堂
まで出してトウモロコシを煮たものやお茶などを売っている。
 これは大変な事になった。順番を待っていれば2〜3日の野宿を
覚悟する必要がありそうだ。するともっと先まで行っていたドラ
イバーが戻ってきて、私達の車は小さいから車と車の間をすり抜
けながら進む事が出来るだろうと言う。果たしてその通り、あの
大穴のトラックの横もみんなで押して通り抜ける事が出来た。
しかしその後も同じような箇所はいくつもあって、泊まれる宿が
ある次の町までに1泊の野宿は避けられなかったのだった。
そのように、行程の半分約150キロを移動するのに何と3日がかり
となったのである。
アフリカには日本人の常識外のことがいくつも転がっている。

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アフリカの道路事情 1

 日本の一般常識では思いも及ばないアフリカ事情ということで
は道路についての逸話をお伝えしよう。
 場所は旧ザイール(現在のコンゴ民主共和国=DRコンゴ)東部
で、時は1990年の末。キブ湖畔の町ゴマ(後にルワンダ紛争で大
量の難民が流入して日本からも自衛隊が派遣されたことで知られ
る)から北へおよそ300キロ。ピグミー(この呼び方は今は蔑称
とされているのでバンブテと呼ばなければならない)の人達が住
むイツリの森へとを車で移動したときのことだった。
ゴマは国際空港もあるちゃんとした都市だ。ルワンダとウガンダ
と3国の国境を跨ぐ山岳にはマウンテンゴリラが生息していて、
そのゴリラ観光の基地ともなっている。それでも鋪装道路は街の
中心街にしかなくて、街を出るとすぐに土の道となってしまう。
その土の道はゴマと旧ザイール北部の町を結ぶ唯一の道路で、ガ
ソリンなどの他に食料品や様々な生活用品の流通に欠かせない幹
線道路だ。
いくら未鋪装道路とはいえ300キロならば、一般人の常識ではど
んなに時間が掛かっても3日もあれば着けるだろうと考えるのが普
通だろう。道路事情に通じた地元の運転手と悪路に強い4輪駆動
車をチャーターして相談した。すると何と「5日でも着けるだろう
か?」などと言う。「大型トラックがすっぽりと陥没してしまう
程の穴が続いている道だからねえ」そう言う運転手の言葉が、東
南部アフリカの道路しか知らない私にはどうしても想像できない
のだった。時は雨期の始まりで、しかも熱帯雨林に囲まれた一帯
であって、道はその森を縫って走っている。最も信頼できるミシ
ュランの道路地図によると道の一部は「雨の時期には通行不能」
とマークされていて、「場合によっては野宿も必要」などとも言
う。何はともあれ行くしかない。いずれにしてもキャンプ道具や
自炊の用意はしていたので、念のためにすぐに食べる事のできる
パンやビスケットなども余分に準備して出発した。
第一日目は割合に順調だった。それでもぬかるんだ山道を越える
のは時間が掛かって60キロほどしか進めなかった。そして2日目
運転手が言っていた「大穴が続く道」を目の当たりにすることに
なる。

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長髪とズボン 2

 さて、リロングウェのその名もカムズ・バンダ国際空港で…
タラップを降りた私たちは入国審査の列についた。撮影用のビ
ザは事前にアレンジして取得済みだ。さて入国スタンプは押し
てもらえるだろうか? 
アシスタント氏がパスポートと入国カードを提出した。係官は
若く、真面目そうな男性だった。マラウィには実直そうな雰囲
気を持った人が多い。そんな国民の代表のような感じの青年だ。
にこやかに対応する係官がパスポートの写真と実物を見比べた。
アシスタント氏の髪はくるりと巻かれて帽子の中に収まってい
る。その襟足に視線が止まり「済みませんが、帽子を取って戴
けますか」と係官が丁寧な英語で言った。
ホラ来た。アシスタント氏が私を見返し、仕方なさそうに帽子
に手をかけた。取った帽子の中から長髪がハラリと肩に降り掛
かった。係官が笑いながらゆっくりと首を横に振る。
「男性の長髪は禁止なのです。入国するには切ってもらうしか
ありません」と、カウンターの下から鋏を取り出した。ちゃん
と用意してあったのだ。「そこのトイレに鏡があるので、お友
達に切ってもらってはいかがでしょう」と促す。
アシスタント氏はようやく観念してカメラマンと一緒にトイレ
に向かった。当然のことながら、私も自分の入国審査を止めて
二人の後を追った。二人が「このくらいで大丈夫かな?」と髪
を切っていると、他に対応する乗客がいない例の係官が様子を
見にやって来た。
「もう少し切ったほうがいいですね」などと、結局は肩まであ
った長髪は襟に掛からない程度までばっさりと切り落とされ、
ようやく入国スタンプが押されたのだった。
 今ではそうした事までもがグローバル・スタンダードの名の
元に画一化されたりしている。首長の独裁的な思いが国民だけ
ではなく外国人観光客をまで巻き込む事の是非は各人の考えに
任せるとして、今や狭いこの地球にもこうしたことは起こり得
ることなのだということを心に刻んでおいて欲しいということ
なのだ。同じように、知り合いの女性はマラウィ滞在中にはズ
ボンの上に腰巻き状の布を下半身に巻き付けて乗り切った。
今、マラウィではこの法律は無くなっている。
ただ、私はこのことを少し前に起きた笑い話に終わらせたくは
ない。本来のグローバル化とは、自分の殻に閉じこもる事無く
様々な生活様式を理解し・認めた上で共存することではないか
と思う。
男性の長髪や女性のズボン禁止は理に叶わない事柄ではない。
それを冗談だとしか受け取るしか出来ないような事のほうがお
かしいのかも知れない、と気付くことを大事にしたいものだと
私は思う。

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長髪とズボン 1

 しばらくは私のアフリカ体験を続けてみよう。
南部アフリカの内陸国マラウィが初代大統領、カムズ・バンダ
(後の民主化で失墜した)の独裁政権時代の事。
伝統や習慣を重んじることを国是の一つとしたバンダは、男は
男らしく女は女らしく、身だしなみもそうあるべし…として或
る法律を作っていた。それは男性の長髪、女性のズボン着用を
禁止するというもので、外国人も例外なく適用された。
そんな1993年のことだった。私は或る大型紀行番組の取材の
仕事で大地溝帯を北はエリトリアから始りエチオピア、ケニア、
タンザニア、マラウィ、モザンビークへと紅海からインド洋ま
でを縦断した。その中にマラウィ湖でダイビングをするという
重要な場面も含まれていた。この湖は非常に透明度が高く、ダ
イビング愛好家にとって隠れた名所とされている。そしてまた
親魚が稚魚を自分の口の中で育てるマウス・ブリーダーと呼ば
れる魚類が多く見られる事で、魚類愛好家にも注目されている
場所でもある。
ということで番組では水中撮影の専門スタッフを呼び、私はナ
イロビ空港で水中撮影のカメラマンとアシスタントの2名と合
流して乗り込む事になっていた。二人とも初対面だ。果たして
そのアシスタント氏が肩に掛かるほどの長髪だったのだ。
「あれえ!その長髪は問題ありですよ」挨拶もそこそこに第一
声をあげた私はマラウィの法律を説明した。そのことは当時の
「地球の歩き方」にもちゃんと記載されていることだった。
でもそんな法律がある国がこの世に存在するなんて思いも及ば
ないのが普通の日本人だろう。冗談だと受け取ったアシスタン
ト氏は「えー?でもこうやってれば大丈夫でしょう」と、たく
し上げた髪を、冠っていた帽子の中に押し込んで見せた。
私はそんなんじゃ駄目だと伝えたが彼は真に受けない。
「じゃあ、どうなっても知りませんからね」と、私たちはマラ
ウィの首都に向かった。

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国境越えの話 2

 朝の国境から振り回されて昼過ぎまで、私たちは昼飯を食べる
間もなく走り回っていた。とりあえず腹ごなしでもしようや、と
いうことでハンバーガー屋に落ち着いて話し合った。
コンダクター氏がちょっとパスポートを見せてくれと言う。暫く
パスポートと別紙のビザを睨んでいた彼が、おもむろに「ヨシ」
と呟いて「このビザ貼り付けるけど…」と言いながら鞄から糊と
鋏を取り出し「…そして別のボーダーでトライする」と続けた。
その時私も同じアイディアを思い付いていたのだった。うまくす
れば他の国境でなら意外と通過出来たりもする事がある。しかし
ビザをパスポートに貼り付けるという事には思い至らなかった。
「そ、それはちょっと…」ケニア再入国の時に問題となる恐れが
あるわけだ。しかし彼は「分かってる」と言いたげにニンマリと
笑いながら「端のほう、少しだけだから」と、どんどん作業を進
めてしまった。まあ何とかなるだろう。
 さて今度はボーダー選びである。スワジランドと南アの間にあ
る幾つものボーダーから朝のメインボーダー以外の場所を探す。
閉門時間と、そこまでの距離から所要時間を計算して私たちは或
る場所に決めた。約2時間後の5時までに通過する必要がある。
道路インフラが整っている南部アフリカである。完璧な舗装道路
をスッ飛ばした。そして西の空が赤くなりかけた頃、私たちは小
さな事務所がポツンと建つ国境へたどり着いた。スワジランドの
出国を済ませて、なるべく軽い足どりで南ア側の事務所に向かっ
た。担当官は若い黒人だ。コンピュータは、ある。二人のパスポ
ートを一緒に出したコンダクター氏が、アフリカーンスではなく
英語で挨拶の声をかけた。係官は笑顔で応えながらPCに入力し
「観光ですか?」と聞く。「そうなんだ、日本からのお客さんで
ね」「あなた、職業は?」「ツアーガイドだよ。プロフェッショ
ンは設計士なんだけどね。副業だよ」会話が続くうちにパスポー
トが処理されてゆく。PCからラベルがプリントアウトされて2つ
のパスポートに貼り付けられてスタンプが押される。
「ではお気をつけて」「サンキュー・サー」
私たちは目線を交わしてそそくさと車へ戻った。座席に着くなり
ドッと笑いあった。パシッと音を立てて手を握り合い「ヤッタ
ぜ」と叫んだ。その数年前、アパルトヘイト時代の運動をテーマ
とした大作映画「遠い夜明け」の1シーン、政府の糾弾を逃れる
白人ジャーナリストが牧師になりすませて南アから脱出する。
あの主人公になったような気分だった。ゲートを通過したら車か
ら出て、あのジャーナリストがしたように足踏みならしてズール
ー族のステップで踊ってやろうか…と本気で考えたものだった。
 追記:パスポートのページに貼付けられたプリントアウトは乾
かないうちにすぐに別紙に貼り直し、別紙も元通り丁寧に剥がし
ておいた。別紙から少しはみ出して押されていたスタンプが気に
なったがしょうがない。南アの後はボツワナを回り、ケニアに戻
る前は独立(1990年3月)直後のナミビアからとなるから誤魔化
せるだろう。そして思惑通り、ケニアには別紙を隠したまま何の
問題も無く入国した。

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国境越えの話 1

 ちょっと堅い話題が続いたので、私のアフリカ体験を。
まだ南アフリカがアパルトヘイト時代の1990年のことだった。
あるテレビ番組の撮影で南部アフリカ数カ国を回った。そのとき
南アフリカから陸路でスワジランドへ入って、また南アフリカへ
戻るという日程が組まれていた。
事は南アフリカへ再入国の時に起こった。
他のスタッフは日本からビザを取って来ていたのだが、ケニアか
ら参加した私の南アフリカ入国ビザは日本でアレンジしてくれた
ものだった。私に渡されていたのは1枚のテレックス(当時はま
だFaxさえも一般的ではなかった)プリントアウト。それには
「この者の入国はクリアーされている。もし問題ある場合は担当
の誰それに問い合わせするように」と簡潔に記されているだけで
ビザの種類等何も記載されていなかった。それでも最初に国際空
港に着いた時には何の問題も無く入国出来、別紙にスタンプを押
して貰えた。当時はパスポートのページに南アフリカ入国スタン
プがあると、ケニア(その他殆どのアフリカ諸国も)への入国が
拒否されるという時代だった。
 さて、スワジランドでの撮影を終えた私たちはミニバスを連ね
て南アフリカへの国境へ向かった。スワジランドの出国手続きを
済ませた他のスタッフが簡単に南アフリカの入国審査を通過して
行った。ところが私の番になって、コンピュータ(当時すでに南
アフリカでは入出国管理がコンピュータで処理されていた!)の
画面を睨んでいた係官が首を振ったのだ。あなたのビザはシング
ルなので再入国にはビザを取り直す必要があるのだと言う。他の
メンバーと一緒なのだとか、どう言い募ってもガンとして聞き入
れようとしない白人女性係官の態度も気に食わなかった。
幸いにスワジランドのビザはマルチエントリー可能だったので
もう一度戻る事は出来る。他のスタッフと国境で分かれ、自分の
車で同行していた南アの旅行会社のコンダクターとムババネまで
戻り、なんとかするしか無いということになった。このコンダク
ター氏はリベラルな白人男性で、リタイアした設計士だった。好
きな旅行の仕事で余生を過ごそうという、良識的白人南ア人の代
表のような好人物だった。
さてしかし、その日は週末で南ア領事館は閉まっていた。領事の
自宅を訪ねて直接交渉しようかとも考えたが、コンダクター氏が
電話で調べたところ何かのパーティに出かけているとのこと。
私はその日のうちにヨハネスバーグに戻らなければ、翌朝の移動
に間に合わない。さて困った。そこで、長年のアフリカ暮らしで
培った私のアイディアと南ア生まれのコンダクター氏の考えとが
一致した。

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続・路上の生活

 高校中退の最新の統計を探してネットから検索した。以前は
都庁の資料室で調べた、東京都教育委員会の公立学校統計調査
報告がネットに引っかかった。ここ数年はもう、退学の理由を
細かに調べてはいないらしく、ひとまとめに退学者と転出者と
しか区分されていない。その平成18年度の退学者数は5058人。
全高校生数の3.7パーセントだと出ている。平成13年度では4.4
パーセント強なので割合としては少し減ってはいるようだが、
グラフにすればほぼ横ばいということになるだろう。東京都の
公立高校に限っての統計でこうなのだから、全国規模では一体
どうなっているのか?教育関係者にはそうしたことを気に掛け
て何らかの対策などを考えている人が居るのだろうか?
 一時はグレかけたこともある我が息子は、幸いにも今はIT
関連企業で働いている。しかし同じようにドロップアウトした
若者たちの受け皿はごく限られている。息子の友人たちには、
今もフリーターなどに甘んじるしかない者も多い。
そして考える。もしあのままアフリカに暮らし続けていたら?
暮らしていたケニアでは大学がいくつも設立されて学生数を増
やした。うまくセカンダリー・スクール(8年制のプライマリ
ー・スクールに続く4年制)を卒業して大学入学試験を通った
としても、ケニアには大学卒業者の受け皿が無い。
富裕層や多くの欧米系、インド・パキスタン系のケニア人は
子供たちを海外の大学に送る。そしてそのまま海外で職を探す
事が多い。私にそうしたことが出来たかどうか、疑わしい。
同じようにケニアで暮らす日本人たちの多くも、子供たちを日
本や欧米などに送るケースが殆どだ。そして子供たちにケニア
で就く事の出来る職業は殆ど無い。
よく、「ケニアは暮らしやすいですか?」とか「生活費が安い
でしょう」とか聞かれた。その都度私はこう応えていた。
『途上国だからといっても外国人が外国人らしい生活をするに
は、それなりの生活費が必要なのです。日本に暮らすのとそん
なに大差無いですよ。』私たちに途上国の底辺の暮らしは出来
ない。これは他のどの国に暮らしても同じだと思う。
既成の安定した企業で働くのではなく自分で独立した生計を営
んでいた私のような者には、逆に途上国での暮らしはリスキー
なのだ。板一枚下は荒海で、転落すれば路上の生活が待ってい
るのだ。

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路上の生活

 確か「もっと広く」だったかと思ったのだが、どの著作にあっ
た記述か探したが見つけられなかった。開高 健が「途上国とは
人生の大部分が路上でくりひろげられるような国」と書いていた
はずだ。とすると今の日本もまたそうした「途上国」の仲間入り
の栄誉にあずかったと言えるのだろうか。
 一般的にホームレスの数が顕在化していったのは私が帰国した
1995年あたりからだとされているようだ。だとすればまた、彼
らの姿が増えていく背景が形作られたのは、私がアフリカに暮ら
していた間のことではないか。またしても根源は「バブル」期に
探す必要がありそうだ。
超高齢化社会である今の日本ではホームレスもまた高齢化が進ん
でいるようだが、まもなく事態は「ホームレス中学生」以上に深
刻なものになってゆくのではないか。ドキュメンタリー映画
「チョコラ」に描かれているよううな、路上を暮らしの場としな
ければならないような子供たちも増えてゆくのではないか。
事はケニアで起こっているだけの問題では無いのだ。
 私の下の息子は高校を中途退学した。その理由は家庭が分散し
て私一人では十分に心のケアが出来ていなかったことに起因する
のだと思う。その辺りの事はまたどこかで触れるとして、私の知
るところでは今、高校を途中でドロップアウトしてゆく子供たち
が多い。
平成14年、そうした統計が無いかと都庁の資料室に出かけた。
東京都教育委員会の公立学校統計調査報告によると、平成6年の
退学者数は7933人(内、経済的/家庭の事情/問題行動が理由は
754人)平成7年7713人(667人)平成8年8192人(635人)
平成9年7759人(709人)平成10年(556人)平成11年6787
人(603人)平成12年6703人(624人)平成13年6735人
(543人)となっていた。生徒数が減り続けているなかで退学
者数の割合は増えているのだ。最新の統計は調べていないが、
割合が増えはしても減ってはいないのではないかと想像する。
「途上国」日本の路上の生活を注視する必要がある。

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ユッスー・ンドール 魂の帰郷

 久しぶりに良い映画だった。最近は音楽映画…というジャンル
があるのかな?に良いものが多い。マーチン・スコセッシが製作
した7連作"the Blues"が白眉だったが、「魂の帰郷」もまた、そ
うした傑作の一つだと思われる。
セネガルの巨星ユッスー・ンドールが、その音楽に通底するもの
を求めてアメリカやヨーロッパを巡り、様々な音楽家との競演を
経ながら一つのユニットを形成する。その軌跡を追いながら、彼
自身と、彼と出会う音楽家たちの思いと音楽を記録していった映
画だ。
ユッスーの、あの祈りのような歌声がさらに磨き上げられる様が
映し取られていた。時としてイスラムのアザーン(祈りの時を告
げ、呼びかける朗誦)のようにさえ聞こえる。しかし彼の音楽は
決して宗教的にならず政治的に先鋭化することもなく、魂の音楽
としての昇華を続けているようだ。
 グローバル化という事で言えば、音楽こそがその究極の手段で
はないか。言語も宗教も民族もこえて感性と感情を共有できる時
間。それは音楽や踊りなどの特権ではないかと思う。
良いものを見せてもらった。

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「生きづらさ」について-3-

 グローバル化(globalization)という言い方が頻繁に目につき
始めたのは確か帰国して暫くしてからのこと、2000年代に入
ってからの事だと思う。その前の1990年辺りにアフリカでは盛
んに民主化(democratization)という言葉が飛び交っていた。
どちらも改めて考えると一体どういうことなんだと思う。
globalizeが地球規模のスタンダードを求めるならば、人口の多
くを抱えるアジアやアフリカの人々の暮らしをこそ基準にする
必要があるだろう。democracyを敷衍するのが民主化だとする
なら、先進の特権階級の利益が優先されるシステムが民主主義
を運営させるものだとは考えられない。単純に言って、私の子
供時代に教えられた「民主主義」の基本は「多数決」だった。
だとすればこれもまたアジア・アフリカの暮らしや意見を反映
させずにはいかないだろう。一部の先進工業国の代表だとされ
る輩によって決定され方向付けされるのは、果たして民主化な
のだろうか?私はずっとそう感じていた。
 しかもそうした民主化の裏にあるのは、いつも旧植民政府であ
る西欧諸国が収奪する利権や資源を確保するための経済政策だ。
大きいもの強い者が勝ち残り生き抜くという考えは、あっと言う
間にアフリカ社会を崩れさせていった。それが表立って表れたの
が1990年あたりに勃発したアフリカ各国の民族紛争や内戦だ。
そうした流れがアフリカに暮らす人たちに「生きづらさ」を強い
ていったのだと思う。
 本来は相互扶助と自給自足を基盤に「足るを知る」暮らし方を
維持してきたアフリカのあり方をほんの数年で変え、部族や氏族
同士の抗争で多くの人命を失わせてしまった。
近年の日本の自殺者数は年間3万人を下らない状況が続いている。
一見明るいと思われがちなアフリカ人に自殺が結構多いと言う事
を知っている人は少ないだろう。首都圏ではビルからの飛び降り
がある。統計データが殆ど無いアフリカにあって、生きづらさの
拡大と比例するように増えてきた自殺者数について、日本を含め
た先進国のマスコミが注目する事は殆ど無いのが実情なのだ。

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「生きづらさ」について-2-

 対談の中で雨宮が語っている個人史によると、彼女がイジメに
遭い「生きづらさ」を募らせていったのは90年代前半らしい。
ということはやはり、その前の数年にそうした現象を生む元とな
る素地が形成されて行ったと考えてよさそうだ。
1980年代中頃といえば、アフリカでは欧米型の資本主義がより
広く深く浸透していった時期でもある。
 経済上の一例では、1980年代末あたりまで殆どのアフリカの
国では入国する外国人へ持ち込み外貨の申告を義務づけていた。
空港の税関に持参した外貨の額を記入した申告書を提出し、銀行
で換金する毎にいつどこで幾ら換金して幾ら残っているかを記入
するようになっていた。出国時にその申告書に記載されている残
額と実際に財布に残っている額を照らし合わせて、合わなければ
没収その他の罰則が科せられるということになっていた。ただし
余程のことが無ければ細かに調べられることはなく、適当に申告
額を誤魔化して換金率の良い闇両替えの恩恵を受けると言うのが
一般的でもあった。
当時の闇両替えでは公定レートの3割程度率が良かったと覚えて
いる。主にインド系やパキスタン系などの東アフリカの商業を牛
耳る商人たちが、店の裏でコソコソと取り引きをしていた。移民
3世代や4世代目の彼等には、そのようにして外貨を現金で貯めて
いつでも国外での生活に対応できるように準備しておく必要があ
ったのだ。
 彼らは彼らなりにアフリカに暮らす移民としての「生きづら
さ」を抱えていたのだ。そしてアフリカの国としてはそのように
して少しでも外貨を獲得する必要があった。工業製品などの多く
を輸入に頼らざるを得ない「生きづらさ」への対策だ。
その後外貨の持ち込みや持ち出しが自由になっていったが、逆に
何世代にも渡ってアフリカに暮らしていたインドやパキスタン系
の人たちがアフリカを離れていくようにもなっていった。まるで
夜逃げのように資産を手放して、ヨーロッパやアメリカに移り住
むことになった人たちを何人も身近に見て来た。外貨の自由化と
引き換えのように、また別の「生きづらさ」が彼らを包んでいっ
たのだ。

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