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2009年2月

『「生きづらさ」について』-1-

 80年代の日本に何が起こったのか?その一端が探れそうな本が
目についたので読んでみた。雨宮処凛と萱野稔人の対談『「生き
づらさ」について』だ。副題は〜貧困、アイデンティティ、ナシ
ョナリズム〜となっている。元右翼系パンクロッカーで今やプレ
カリアート問題に取り組むジャーナリストと気鋭の哲学者が、労
動や格差、貧困の問題についての体験的な話を展開して実に分か
りやすい。折も折、新聞には「非正規15万7806人失職」の見出
し(東京新聞2/27夕刊)が1面トップを飾っていた。 
随分具体的な端数が出ているものだが、そのような数字は政府の
バイアスが掛かったご都合的な統計である事は誰もが判る事だ。
 アフリカから帰国した1995年以来、私の肩書きはフリーラン
スのテレビ演出家だった。実質的には潜在的失業者で、一回あた
りの労賃は比較的高いが連続性の少ない、いわば日雇い労働に近
いもので、言い換えるならばマスコミ系専門フリーターだ。
一家5人の生計を維持する安定した収入が維持できていたわけで
はないので、マスコミの仕事が無い時に色々なアルバイトをした
ものだ。それは警備会社の交通誘導員だったり、大型量販店の防
犯係(主に万引きやクレーム対応)。大手自動車メーカーの部品
倉庫の発送係、焼き鳥屋の仕込み、ラブホテルの客室清掃員、ビ
ジネスホテルの夜間専門フロントマン…というような仕事だった。
どれもが所謂派遣を含めた非正規雇用だ。最近の日本には、中年
のオヤジに正規雇用の道は開かれてなどいない。
勿論正規雇用を求めては折に触れてハローワークに通った。何10
回となく履歴書も送ったが、1回も面接に呼ばれた事はない。
政府が年齢制限を規制しているので、表向きは求人に年齢の枠は
無い事になっている。しかし実情はそうなっていない。事ごとく
突き返される履歴書に業を煮やして、一体拒否の理由が何かを把
握しているのかと、ハローワーク職員を問いつめた事もある。
でも奴らはそんなことは知らないし追求しようともしていない。
新聞に発表される、実体を全く反映していない有効求人倍率など
の統計を出すだけだ。
 とにかく私もそのように、プレカリアートの一員として帰国以
来「生きづらさ」の中で生きてきたのだなあと、この本を読みな
がら実感したのだ。

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小説「東京スタンピード」から

 冒頭の印象が良かったので森 達也の小説「東京スタンピー
ド」を読んでみた。彼のルポなどが好きで殆ど読んでいる。
この小説は雑誌に連載されていたものだそうで、小説も書いて
いたとは知らなかった。期待しながら読んだのだが、主人公の
元彼女が頻繁に出てくる中頃からちょっと怪しくなっていった。
終盤になっていよいよ変調をきたしてしまっていた。劇画のよ
うな展開に辟易する。細かな事はあえてここでは述べないが、
テーマと着眼は良いのにやっぱり彼に小説は無理なようだ。
しばらくはずっとルポに徹して欲しいものだ。
ちなみに森はSTAMPEDEの意味を誤解していると思われる。
本の帯に「集団暴走=スタンピード」と書かれているが、実際
は集団が恐怖や不安に混乱して右往左往して逃げまどい大混乱
に陥った状態の事をいう。彼が描いていることは、先鋭化した
狂気が他を一方的に追いつめて攻撃するという状態のようなの
だ。
まあそれはそれとして、この小説でも他のルポなどでも、森が
一貫して探っている事は、ある部分で私がこのブログの文章を
通して探ってゆこうとしている事と共通している。
現状の日本が抱えている病巣。その根源と行方を見つめている。
そんな共感があるし、取り上げる対象が私の興味と重なる。
 既にこのブログで私は繰り返している。この日本はおかしい。
あんなに迷走・酩酊・思考停止・保身ばかり曝け出している政
治状況に何も声を上げないでいることもおかしい。それはマス
コミだけでなく一般国民や学生などの態度のことだ。前に私は
一揆ものだとも書いた。自殺者ばかりが増えている一方で、声
を上げる人が居ないという事もおかしい。
 政治家では渡辺喜美議員がスタンドプレイの造反劇を演じて
見せたが、その後の本人の言動もよく分からないし反応も伝わ
って来ない。彼の事は評価していないが、それでもあれをきっ
かけにせめて何らかの声が上がってきても良さそうな気がした
のだが、それさえも無いのだ。ある意味で、今の日本は本来の
意味でのスタンピード状態なのかもしれない。

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映画「チョコラ」

 ドキュメンタリー「チョコラ」の試写会に行く機会があった。
ケニアの首都ナイロビから車で40〜50分の町、ティカの路上に
暮らす子供たちを追った映画だ。チョコラとはchokora pipaと
言うスワヒリ語のスラング「ゴミ溜漁りする小僧」の短縮された
呼び方だ。多くは貧困に由来する色々な理由で、ゴミを拾っての
路上生活を自活の舞台としなければならなくなった子供たちがい
る。それがチョコラだ。
私がナイロビで暮らし始めた1982年には、そんな子供たちの姿
はナイロビにもいなかった。だが、パーキングボーイと呼ばれる
子供たちは居た。街のあちこちにあるメーター式の駐車場をテリ
トリーに屯して駐車中の車を見張ったり、追加のコインを入れて
おくなどの代償に小遣い稼ぎをする。私もよく彼等の存在を利用
したものだ。そんな彼等から弾き出された者たちがゴミ漁りを余
儀なくされていったと思われる。その後チョコラたちの姿が増え
ていった。それはケニアが資本原理主義に染まってゆく過程と呼
応している。家庭で面倒を見られない子供は親類や隣近所の人た
ちが面倒を見ながら育てていたような本来は相互扶助が当たり前
のアフリカ社会に、そんなことに構ってはいられなくなるほどに
厳しい現金至上のシステムが敷衍されていった。
貧富の差が拡大し、自分の暮らしに精いっぱいで親類の辛酸さえ
無視しなければならない弱肉強食を受け入れなければならなくな
っていった。貧しい家庭では公立小学校でさえ子供たち全員を通
わせる事ができない。そうしてドロップアウトしていった子供た
ちが路上に出ていった。
 映画「チョコラ」ではそうした背景などの説明的なナレーショ
ンは一切無い。最近の日本のテレビなどでは過剰に説明的だった
り、情緒を誘導するようなナレーションや文字のスーパーインポ
ーズが目に余る。しかし映像と同録の会話だけで十分に伝わるべ
き事は伝わる。5月から全国で順次公開されるので、多くの人に
ぜひ見て欲しい。
一言付け加えるとすれば、日本人がやっているNGOの部分はカッ
トして欲しかった。でもそのNGOの存在があったからこそ実現し
た撮影だろうからそうはいかないのだろうが…

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〜アフリカの女 日本の女〜

 それはそれとして、アフリカの「出会い系」だが、その背景
にあるのは貧困であることは間違いない。一方で日本の「出会
い系」利用者の背景にあるものもまた貧困だと思う。しかしそ
の「貧困」の質は全く違うものだ。同じような経済的・物質的
貧困であっても生きる事に直接拘る貧困と、生活に付帯的な事
柄に拘る貧困とでも言おうか。携帯電話代とか普段できないち
ょっとした贅沢とか遊び金欲しさの援助交際など、生きること
には直接の必要性が薄い。何故そんな事のために体を売るのか
多分アフリカの女たちには理解できないに違いない。
アフリカの女たちが求めるものは生活の実体であって、日々の
食事や生活必需品を得るための現金だ。消費社会の歯車として
生命維持には不要な消費のための消費に費やす現金を得るため
の売春(もう援交などといううやむやな言葉は使うまい)など
蔑むべきものなのだ。本来は多くの日本人にとっても、そのよ
うな事が売春のモチべーションになるなど思いもつかない事だ
った筈なのだ。
 そこでまた少し時代を遡ると、どう考えても80年代の日本で
何かが起きたのだと思われてならない。あの、女子高生のミニ
スカートが目につき始めた頃、実体の無い株式経済が富の尺度
として幅を利かせていった頃、日本人の精神に大きな陥穽が穿
たれてしまったようなのだ。その現われの一端が、女達の姿に
反映されている。そして悲しい事に、アフリカにも民主化の名
の下に経済至上の西欧型資本原理主義がIMFの肝いりで強制さ
れ、アフリカ伝統の共同体による相互扶助システムが崩壊して
いった。首都のはずれにスラムが形成されて、そのスラムから
も弾き出されるストリートボーイや、誰も面倒を見る者の無い
孤児たちを増殖させてきたのだ。
 こうした状況になって初めて、日本の女とアフリカの女とが
ひとつの尺度で見比べられるようになったのは悲しい。

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〜アフリカの出会い系 2〜

 アフリカでナイトクラブを舞台にした「出会い」を求める女達
に共通するのは援助交際目当てであることだ。そして彼女達の多
くはあわよくば妻になることを望んでもいる。アフリカの女に求
められるのは子孫繁栄である。よく言われる一夫多妻は、兄弟に
不幸が起きた場合に残された妻や子供の面倒を見る相互扶助シス
テムとしての機能にその主要な目的がある。
また、繁殖能力の無い女は愛情の有る無しに拘らず大きなエクス
キューズが課せられる。結婚後何年経っても妊娠できない妻は、
子孫繁栄のために夫が別に妻を持つ事に異議を唱えることは出来
ない。また夫は自分の社会的能力(何人もの妻や子供を養う事の
出来る証)を誇示するために何人もの妻を娶る。そして女たちは
自分の繁殖能力を示すために婚前に妊娠してしまうというケース
が多々あるのだ。
日本で言う「出来ちゃった婚」とはニュアンスが違う。無知や不
注意の結果妊娠したというのではない。妊娠を前提に交渉を持ち
出産する。しかし男は「果たして本当に自分の子かどうか分から
ない」と難くせをつけて結婚を回避するという戦法をとったりも
する。そこで10代後半で出産して学校をドロップアウトしたり、
乳飲み子を抱えて行き場を失うような女も数多くいる。
 性におおらかだという気質もあるにはある。実は私はある時、
ケニアの地方都市の農家にホームステイする機会があった。その
家には私より少し年下(当時は25歳)の長男がいた。彼の下の妹
は23歳で独身だった。その家の離れ(といっても土壁、草葺きの
小屋)に寝泊まりさせてもらったのだが2日目の夕方、コーヒー
畑を散歩していると長男が私に言った。
「妹がおまえとやりたがっている。そこの畑の裏でやってこい。
見張っててやるから。」なんとも驚いたものだ。
それは、私がケニアに暮らしはじめてまだ数カ月の頃のことで、
当時の私にはそんな持ちかけに対応できる知識も語学力も無かっ
た。もしその誘いに乗って妊娠でもさせていたら今の私は全く違
う人生を歩んでいたかも知れない。(続く)

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〜アフリカの出会い系 1〜

 そのように日本のバブルの恩恵でアフリカ生活を続ける経済
基盤ができたお陰で、私は以後13年にわたってアフリカ各地、
20か国を訪ね歩くことができた。奇しくもアフリカから引き揚
げることになった時期は、日本のバブルが弾けて社会にまた歪
みが生じていった時期でもあった。この辺りの事は別の機会に
触れるとして、今回はアフリカの女たちの姿を描くことにする。
 当時も今もアフリカにテレクラのようなものがあるとは聞い
た事も見た事も無い。カラオケバーはあった。今もあるし流行
っている。電話は随分とインフラ整備が進んだとは言え、まだ
架設電話を開くには時間とお金が掛かる。一方で携帯電話が
ものすごい勢いで普及している。これはアフリカのどの国でも
同様だ。あの内戦が終息せず政府も確立できないでいるソマリ
アでさえ携帯電話の会社は数社あるのだ。パソコンも随分安く
なったお陰でかなり普及してはいるが、まだまだ個人で所有し
てネットにアクセスできる環境を享受できる人は少ない。
しかしネットカフェは主要都市には出てきている。
そんな状況の中でアフリカの女たちが「出会い系」として利用
してきたのはナイトクラブだ。日本的に言うとかつてのディス
コ、今風に言うクラブということになる。
 セクシーに着飾った女たちが夜な夜な集い、性的な交渉事を
前提にした出会いを求める。言わばオープンなナンパ場であっ
て、相手との面と向かった交渉が繰り広げられる。集う女たち
の状況は日本とあまり変わらない。女学生もいればシングルマ
ザーも多い。違うのは主婦は居ないこと。特にセックスレスの
主婦などという人たちは皆無であるということだろう。
雇用状況が悪いアフリカでは好むと好まざるを問わず、女が定
収を得る地位に就く事は難しい。そんな状況が改善されさえす
れば、アフリカの女たちがそうした出会いを求めなければなら
ない現象は極端に減るはずだ。
そんなナイトクラブで一杯やるのは私の楽しみの一つで、私が
訪ねた殆どの都市のナイトクラブは踏破した。
暮らしていたナイロビはじめ、タンザニアのダルエスサラーム
にアルーシャ、エチオピアのアディスアベバ、ウガンダのカン
パラ、ルワンダのキガリ、旧ザイール(現コンゴ民主共和国)
のキンシャサとゴマとキサンガニ、ジンバブウェのハラレ、モ
ザンビークのマプト、マダガスカルのアンタナナリボ、スワジ
ランドのムババネ、南アフリカのヨハネスバーグと、どこでも
同じような女たちの姿を見かけた。(続く)

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〜テレクラ探訪 2〜

 電話の会話で判断した限りでは、テレクラを使って援助交際を
求める女の多くはフリーターや賃金の低い人たちで、なかには
「ケータイ代が払えないくて止められそうだから2万円すぐに必
要なんだア」と持ちかけてきた娘もいた。シングルマザーもいた
し主婦もいた。 
 実はその後、そうして会話を交わして意気投合(というか引っ
掛った)した何人かとは実際に会ってみたのだ。会って話をした
だけの事もあったし、そのうちの2人とは実際に交渉を持った。
中学生の息子を持つ40代前半の主婦は、友人と買い物に出てき
た帰りに電話したのだと言った。夫がもう自分をかまってくれな
いので時々夫の帰りが遅い日に、そうした出会いを求めているら
しかった。もう一人は30代のバツイチで出産経験は無く、収入を
助ける実益としてちょくちょくテレクラを使っている。以前はア
ルバイトでサクラをやっていたこともあると面白い話を聞かせて
くれた。やはりどのテレクラも何人かのサクラをもっているのだ
そうだ。アルバイト情報などによく「テレホンアポインター」な
る職種で求人が出ているなかに、そうしたサクラも含まれている
らしい。サクラをやっていた時に相性が良さそうな相手がいたの
で会ってみたことが出会い系デビューだったと言う。
テレクラは男女の性的な交渉事を前提にしたメディアなんだとい
うことが分かった。日本の「出会い系」はこのあたりが発祥なの
か。そしてそれが始まったのが私が日本を離れていた時期のこと
で、多分80年代の中頃か後半あたりだったのだろう。そのころ
日本では一体何が起きていたのだろうか?という疑問が湧いた。
バブルというものが膨らんでいったのもその頃の筈だ。
 当時アフリカに暮らしていた私にもバブルの恩恵はあった。
海外取材のテレビ番組が増えて、アフリカへも引っ切り無しに撮
影隊が来るようになった。アフリカに行く前は番組制作会社でデ
ィレクターをやっていた関係で私にも連絡が届き、そうした取材
のための許可を取り付けたり同行して通訳などをする取材コーデ
ィネートの仕事が続くようになったのだ。しかし日本で何が起き
ているかを知らない私には、いい時代が始まったのかなというく
らいにしか感じられなかったのだ。(続く)

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日本の女とアフリカの女 〜テレクラ探訪 1〜

 今回からは連載で女のことなどを…
私がアフリカに行っている間に、日本の世の中には「テレクラ」
なるものが生まれていた。80年代終盤だったかと思う。一時帰国
した時に、繁華街の裏あたりに看板が出ていて、一体何かと訝っ
たものだ。それはずっと私の中で現代日本の疑問の一つとして引
っかかっていた。
その後帰国して、週刊誌などの記事にテレクラ情報やそこを舞台
にした事件の記事などを読んで、初めてその実態を理解するよう
になった。主に素人女の、援助交際という呼び名の売春の温床ら
しいと知った。それ以前に、これまたたまたま帰国した時にビッ
クリしたのが女子高生たちのスカート丈の短さでもあった。
私が高校生の頃は、スケバンと称されるちょと不良がかった女の
子が好む、スカート丈の長いセーラー服が流行ったものだが、
ミニの場合は必ずしも不良っぽさとは関係なく、スタイルとして
の流行だと知った。しかしなんとも挑発的な眺めではあった。
世の中、何かが大きく変っていきつつあるんだなと感じていた。
 そして妻子と別居し、やがて離婚し、時間を持て余したあると
き「テレクラ」の実態を実地調査してみようと思い立ったのだ。
向かったのは地元。東京都下、新宿から電車で1時間弱のいわゆる
ベッドタウンの駅裏。とある有名チェーン店のひとつだと思って
頂きたい。
とりあえずの予備知識は雑誌や書籍で仕入れておいた。結構な料
金だったので、とりあえず1時間だけ試してみることにした。
入る時にこちらの年齢を申告する必要があったので、5歳ほど過小
申告しておいた。果たして中年のオジさんへコールが来るものな
のだろうか?ところが10分もしないうちに掛かってきたのである。
多分サクラも含まれていたと思うが、1時間のうちに6〜7人の女
と話が出来た。うち3人ほどは話しはじめてすぐ向こうから切られ
た。多分そうした娘は本物だったに違いない。2人からはストレー
トに援交の誘いがあった。相場は2万5千円だという。サクラとお
ぼしい娘は下らない会話を長く続けさせようとしてきた。
 日本の世相の一端が垣間見られるなあと、妙な興奮を覚えた。
もし自分の会話術を磨けばもっといろんなことが見えて来るかも
知れない。そう感じてそれから時々、時間と金に余裕のあるとき
渋谷や新宿のテレクラに潜り込んでは世相調査をやってみたのだ
った。(続く)

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ADICHIE

 もう一人、ナイジェリア出身の若い女性作家に注目している。
Chimamanda Ngozi Adichieだ。BBCの雑誌Forcus on Africa
の記事でO.ヘンリー賞作家として着目されていた記事を読んだの
で名前は知っていた。その邦訳短編集「アメリカにいる、きみ」
(蛇足だがこの邦題は全く気に入らない)」が書評で話題になり
すぐに読んだ。
アディチェは1977年にナイジェリア南部、あの内戦で知られる
ビアフラ地方で生まれたイボ民族だ。ナイジェリア大学の学生時
代に渡米し単編長編の小説を次々に発表し、いくつもの賞を受賞
している。いまはイエール大学に籍を置いてナイジェリアとアメ
リカを行き来しながらアフリカ学の研究をしているという。
ぜひ原文で読んでみたいと思っていたので、去年娘に会いにアメ
リカへ行った時に書店で探し、長編2冊「Purple Hibiscus」と
「The Half of a Yellow Sun」を買った。
ナイジェリアを二分したビアフラ内戦は1967年から70年の間に
起ったことなので、1977年生まれのアディチェ自身に戦争体験
は無い。ところが上記の2つの長編を含めて彼女の作品の多くは
この内戦の前後を時代背景に反映した作品だ。世界の多くの途上
国が様々な事情で内戦を経てきた(今まさにその渦中にある国も
勿論あるが)今、彼女の描く世界は他国の出来事・単なるフィク
ションとして以上に多くの読者に色々な事を考えさせてくれる。
また、短編でしばしば取り上げられているもうひとつのテーマは
アメリカへ移民となったナイジェリア人の暮らしで、これもまた
広く共感を得られる現代的な問題だ。
 こうした問題は私自身がケニアで体験し、今もアメリカに移住
して行った元妻や息子・娘を通して痛烈に考えさせられている問
題に通じている。アフリカの内戦・内乱はどうして起き、誰がど
のように辛酸を嘗めたのか。その結果何が起こり、今現在の何に
どのように影響を与えているのか。そこから派生するものは深い。
アメリカのオバマ大統領誕生も、そうしたことが背景にある事は
間違え無い事実だと思う。

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