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2009年1月

K'NAAN

前回K'NAANというソマリア人ラッパーのことに触れた。
13歳の頃に戦乱のソマリアを逃れた移民で、当時はソマリア語し
か話す事は出来なかったという。祖父には有名な詞人(ソマリア
には口承の詩歌を詠む伝統があって、人前で詞を諳んじた。文筆
をする詩人ではない。また、職業ではない。)だったそうだ。
蛇足だが、ソマリア語が言語として体系付けられたのは1974年
で、それまでは文法や文字化に決まりは無かった。書き文字はア
ラビア文字が充てられていたが、今はアルファベット表記になっ
ている。
発音はアラビア語風で、たとえばカタカナでは「ハ」と聞こえる
音は口を半開きにして喉から強く短く息を出す音で、アルファベ
ットではXaが充てられる。
とにかく彼は、そうした家系に育って祖父の朗誦する詞を頻繁に
耳にしてきたという。7歳頃から自分でも朗誦を始めていたらし
い。最初にニューヨークに着いたあとカナダのトロントへ移り再
びニューヨークに移った。その間に英語を習得、英語とソマリア
語で自作の詞を作りラッパーとして活動を展開した。少人数編成
のライブでは首からかけた太鼓を自ら叩きながら、ソマリア伝統
音楽にも似たスタイルでのパフォーマンスも見せる。世の中の出
来事やそれに対する思いなどを、韻を踏んだ言葉にこめて発信す
る。それが彼のラップで、これはソマリアに古くから伝わる口承
文学の系譜にも繋がっている。
 私がナイロビに暮らしていた頃、年に1〜2回位は家でミニライ
ブのようなことが行われていた。誰かの何かの祝いや断食開けの
祝いなどの機会だったりしたが、歌い手とギター(本来は琵琶の
原型とされるウードと呼ばれる弦楽器だが、現在はガットギター
で代用されている)に太鼓とキーボード程度の簡単な編成の演奏
家を呼んで家の応接間で一晩宴が続いた。そんな歌い手のレパー
トリーには、ソマリア伝統の口承詞も含まれていたて、集まった
誰もが自然と合唱を始めるような曲がいくつかあった。古くから
伝わる歌なのだと教えられたが、ソマリアの歴史や文化はそのよ
うに口承と言う形で伝えられてきたのだそうだ。
K'NAANのラップにはそうした口承詞が反映されていて、それを
モダンにスタイル変換をしたものだとソマリアの人たちには評価
され人気があるのだ。挨拶程度のソマリア語しか分からない私に
はラップとしての音楽性に惹き付けられた。ともすればパターン
化された単純な音作りと露悪的な自己顕示に聞く気を無くさせる
ラップも、K'NAANのサウンドにはひと味もふた味も違う魅力が
ある。
多分まだ日本のCD店には置いていないかもしれないが、第一作
の「The Dusty Foot Philosopher」というアルバムを見かけた
ら是非一聴頂きたい。

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伝統と国籍 2

ソマリア人は非常に頑固なところがあって、それはなぜか私の
気質に合う。頑迷とさえ言っていいような彼等には、近代的文化
とはある意味で相容れない文化的要素がある。それは何かと言う
と、利便性や合理性に背を向ける資質のような気がする。
例えば先に書いたソマリティの作り方なども、各種の香辛料を臼
で砕くところから始まる。元妻とつき合っていた頃、初めて彼女
の住まいに泊まった翌朝、炊事場から何かを叩く強い音を耳にし
て何だろうと訝ったものだ。それが臼の中のカルダモンやシナモ
ン、クローブといった香辛料の粒を杵で叩き潰している音だった
のだ。たとえ電動粉砕器のようなものがあろうと使わない。
彼等はそのように手で砕いてこそ香辛料の香りが出るのだと信じ
ている。アメリカに暮らす元妻や娘に会いに行った時も、彼等は
相変わらずそのようにして美味しいソマリティを作っていた。
そんな彼等にとって国籍は外出するときの上着のようなものでは
ないかと思う。用向きによって使い分ける道具のようなものだ。
 ケニアに暮らしていた最後の数年、私はソマリア内戦の混乱で
逃れてきた多くの人たちを見てきた。元妻の親類縁者だけでも何
百人という人たちが我が家に寄宿したり立ち寄ったりしていった。
そんな人たちの多くが今は欧米諸国に暮らし、すでにその国の国
籍を持っている人も多い。そんな人たちも、所謂国籍上の○○国
人と出自上のアイデンティティを現すソマリア人とを使い分けて
いるようだ。何故それができるかと言うと、彼等にはソマリア人
であるという強い自負が刷り込まれているからだと感じる。
 カナダを拠点に活動しているK'NAANというソマリア人ラッパ
ーがいる。彼もまた少年時代に故国を逃れて移住を余儀なくされ
た者の一人だ。そのファーストアルバムCDをアメリカに居る息子
に探してもらって手に入れていたが、これが素晴らしい。まさに
ソマリア人としての出自が現代的な表現形態として昇華されてい
る。 

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伝統と国籍 1

 21日のアメリカ新大統領オバマ氏の就任式の様子を見ながら考
えた。知っての通りオバマ氏はケニアからとドイツからの移民を
両親に持つ。ミドルネームのHUSEINはイラクの、あのフセイン
元大統領などイスラムの人名によく使われる。
彼の父親はケニア西部、ビクトリア湖周辺に暮らすルオー族で、
多くはクリスチャンとはいえイスラム教徒もまた存在する。
そんなイスラム教徒が父だった。バラクという名前もきっとイス
ラムの名前MUBARAK(エジプト大統領の名前を思い出して欲し
い)になぞらえたものであると考えられる。
長くケニアに暮らした私は彼等の命名の仕方を知っているが、所
謂given nameの次には父親の名前がミドルネームとして付けられ
る。姓のオバマは彼の祖父の名前だ。宗教を関連させる名前では
なく、Oで始まるルオー族特有の名前だ。祖父がどの宗教を信仰し
ていたかは知らない。彼の父親はイスラムからキリスト教に改宗
したようだ。
 ひとつ気になる事がある。何故彼自身やその周辺の人たちが、
彼の出自に拘るこの事実に蓋をしようとしているのかという事だ。
なぜ祖先にイスラムの人が居てはいけないのか?何故恥じるよう
な態度を取るのか?いくらアメリカや西欧諸国が中東の一部の
イスラム国家と対立しているからといえ、またイスラムとの文明
の衝突という構図が出来てしまっているとはいえ、隠したり恥じ
るものではない。堂々と胸を張って「私にはイスラムの祖先がい
る。私こそキリスト教とイスラムの融和の架け橋となる存在なの
だ」と言えないのだろうか?彼がアメリカでキリスト教徒として
生まれ育ったからなのか?
 前回はソマリアの婚礼・婚約式について書き、彼等の伝統的風
習について書いたが、その事にも関連する。私の知る多くのソマ
リア人が世界の各国へ移住していった。いまや10万人規模のソマ
リア系住人を擁するアメリカやカナダは言うに及ばず、旧宗主国
イタリアのほかイギリス、オランダ、ドイツ、スウェーデン、ベ
ルギー、オーストラリアなどなどだ。彼等は現実世界に生きてゆ
く為に国を出て、移住先の国の国籍を取得している。彼等が故国
の国籍を失うことには何の躊躇も無い。それは先の婚礼の話で触
れたように、国籍や住環境が変わろうとも彼等に刷り込まれてい
る伝統上のアイデンティティーが変わることが無いからだと、私
は思っている。(長くなるので続きは次回へ)

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ソマリアの婚約式

 婚約式ニカアは二人が婚約したと皆で確認するための儀式だ。
元妻の妹は当時19歳。ナイロビの私の家に居候として暮らしてい
た。その娘に、タクシードライバーの男が婿として名乗りを上げ
た。同じソマリア人で同じ氏族同志だった。
まずは婚約しておいて、実際に結婚するのは本人たちの経済的・
社会的条件が整ってからのことになる。それがいつになるのかは
インシャアッラー(神の思し召し)である。
婚約や結婚は親の承諾無しには成立しないのがソマリアの伝統的
な婚礼で、婚約はそうした承諾の儀式として、ある意味で結婚式
以上に重要でもある。婚約が成立しない限り結婚は実現しない。
 さてその婚約式の様子を再現してみよう。
ある夕方、ケーキにビスケットなどのお菓子が大量に買い込まれ
ジュースやコーラにソマリティーが用意された。ソマリティーと
いうのは紅茶の葉とともに、臼で搗き砕いたシナモンとカルダモ
ンとクローブを煮込み、たっぷりのミルクと砂糖を入れた紅茶だ。
我が家に親類縁者が集まり、一階に男達が二階には女達が別れて
集まってお喋りに花が咲いた。やがて一階で花婿候補を中心に車
座となっていた男達の中から一人がが二階へ向かった。伝令とな
って婚約の申し出を伝えるためである。二階の女達の中心に居る
のは花嫁候補だ。
申し出に対してすぐに返事が返されて伝令役がこれを持ち帰る。
すると今度は婚資として花嫁への結納金について花婿候補から伝
令が飛ぶ。婚資というのは花嫁に対して支払われる資産で、伝統
的には羊やヤギ、牛や駱駝といった家畜だった。都市部では金銀
等の財宝とか現金も使われる。このときは、ある金額が伝えられ
それを承諾する旨が一階に伝わったところで式次第は終了した。
 すると二階から女達の甲高いウルレーションが響き渡った。
ウルレーションというのはアフリカやアラブの女達が歓喜の時に
出す叫び声の一種だ。少し開いた口の中で舌を激しく振動させる
ことでバイブレーションを伴った「ルルルルルル…」という甲高
い声が出る。この叫びに続いて唄まで始まった。本来ならばこの
あとは踊りに発展して夜を徹して続くはずだ。
 このソマリア伝統の風習は、海を越えてアメリカでも続けられ
てゆくのだ。しかしもう、そうした風習を育んで来た土地は内戦
でボロボロになり見る影も無い。アメリカに移り住む彼等の精神
風土は次第に失われていくのだろうが、どのように継承されてい
るのかを見届けるためにも、4月には是非とも息子の婚約式に出
席しなければ。 

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アメリカの息子

 娘がアメリカに居るということは前に書いたが、息子も居る。
前妻の連れ子で民族的には生粋のソマリア人だ。5歳のときから
ケニアで一緒に暮らし、私たちが帰国したときは15歳だった。
他の子供たち(息子と娘)同様日本語は教えていなかったが、日
本の高校を卒業してアメリカの大学へ進学した。事情があって大
学は中途で止めてそのまま滞米し、色々な経験を重ねた後に今は
元妻と娘(は大学の寮に入っているが)とともにミネアポリス近
郊の町に暮らしている。
その、今年29歳になる息子が4月に婚約するという。その婚約式
に出席して欲しいとの連絡があった。もちろん親として出ない訳
にはいかない。旅行費用を作るための節約を始めた。
 ソマリア式の伝統的な婚礼は婚約式から始まる。それは実際の
結婚式の何年も前に行われることは普通で、息子の場合も結婚は
2年ほど先になるのだという。花嫁候補はシアトル在住の24歳だ
という。移住したソマリア系アメリカ人で、今はハイスクールに
在学中で2年後に卒業したら正式に結婚するそうだ。
こうした婚約から結婚というプロセスは、以前ケニアに居た頃に
元妻の妹の例で経験済みだから私には理解できるし、それがどの
ように執り行われるかも知っている。
次回は、その妹のときの婚約式の様子を伝えることにする。

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ソマリア

 今のソマリアほど国家として崩壊してしまっている国を、私は
知らない。一応は大統領や首相などの閣僚や政府と呼ばれるもの
は、2004年に隣のケニアで開かれた会議によって設置されて居
る。しかし政府はほとんど機能していない。
 私が最後に訪れたのは1992年。当時の状況は、英語ではwar
lord(戦闘部隊の首領:戦国時代の君主のようなもの)と呼ばれ
る者たちに地域が分断されていた。国連やNGOなどの援助物資や
利権を巡って、氏族に基づいた戦闘部隊同士の抗争が絶えること
無かった。当時のアメリカ大統領はパパ・ブッシュ。援助の円滑
と平和構築の名の下に、業を煮やしたアメリカが大見栄をきって
軍事展開をしたことを覚えている人も多いだろう。
ところがこれまた大失敗で、戦費はかさむは犠牲者は増えるは、
アメリカは嫌悪されるわでやがて国連にまかせる形でアメリカは
手を引き、国連も何の成果をあげること無く手を引いた。その辺
りの経緯や、その後の展開などはもう国際社会の注目を引くこと
も無く、ましてや日本の報道機関からはソマリア関連のニュース
など全く顧みられる事は無くなっていった。
その後にソマリアの名がニュースに登ったのは9/11への報復攻
撃の対象候補としてだった。そして今回は日本人医師の拉致であ
り、横行する海賊とそれに対する国際社会からの対応に関してだ。
 たとえ海賊掃討や海上パトロールを行っても、ソマリア本国の
国としての回復なしには何も変わらない。自国の利益や先進諸国
の都合ばかりを考えても、ソマリアの状況を根本的に危惧して行
動している国など無い。スーダンが継続して話題になっているの
も、あの国には埋蔵石油という大きな利権が眠っているからで、
本質的には単に民族問題に注目されているわけではない。
ソマリアにはそうした資源が無いのが不幸なのか?幸福なのか?
そんなソマリアでも欧米の油田開発会社が調査を行ったりして
いることを知っている。政府の不在に乗じて利権を狙い、虎視眈
々と手ぐすね引いている輩がいるのだ。

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ザイールとソマリア 幸せとは

 今はコンゴ民主共和国となった旧ザイールの様子がテレビに出
ていた。私が何度も訪ねたことのあるブカブ近郊のカフジ・ビエ
ガ国立公園のゴリラと、地域で行われているNGO活動の現状が
紹介されていた。なつかしい顔も見られた。
私が最後に訪ねたときもすでに近隣国の戦乱の影響で大変だった
のが、いまは自国内の戦乱も絶えることなく続いている。
生きていくだけでも困難な状況の中で、自然環境や社会状況をな
んとか改善し持続させようとしている人たちがいることに、いま
さらながら目が洗われる。
 一方でソマリアがある。先妻はソマリア人で、子どもたちもソ
マリアと日本の血を受け継いでいるので、私はずっとソマリア・
ワッチャーを続けているが、この国もまた大変な運命を背負わさ
れたものだ。
私たちの一家が日本へ引き上げることになった間接の原因はソマ
リアの内戦だった。その辺りの経緯はこの場で追いおい紹介して
いくが、1990年にソマリアの内戦が始まったとき、私は妻に
この混乱は10年以上続くだろうと言った。今もソマリアは実効
する政府不在のままに、国土と国民だけが国の体裁を維持してい
るだけだ。たまにニュースをにぎわすのは、今回のようにNGO
の日本人メンバーがさらわれたとか、海賊事件などでしかない。
かつての平和でのんびりとしたソマリアを知っているだけに悲し
くてしかたない。
私が生きている間に彼らの国が元に戻るとは、残念ながら思えな
いのが実情だ。しかし今はアメリカに移り住む先妻は、いつかき
っと平和になった国に戻って海岸にリゾートホテルを経営するの
だという夢を持ちつづけている。
 貧しくてもいい。毎日の暮らしが平穏に継続できることこそが
幸せの基本である筈で、そうした例としてGNH(グロス・ナシ
ョナル・ハピネス)を掲げるブータン王国の例も昨日のテレビ番
組では紹介されていた。
 そして我が日本ということになるのだが、もう言うにも恥ずか
しい。

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新年

新年

 久しぶりに実家で年末年始を過ごした。
別に何の変哲も無い月変わりでしかない。今やスーパーやコンビ
ニなどは休みなく開いているし、ただ騒ぎまくっているバカなテ
レビ番組ばかりがうるさい日本の新年風景だ。
 今回は予算の都合もあって深夜バスで福岡まで行き、それから
また高速バスに乗り継いだ。料金の安い深夜バスは人気があって
例年以上に便を増やしたとのこと。途中途中で目にした地方都市
や郊外の風景にはまるで活気がなかった。
 ここでまたアフリカの風景と比較してしまう。
日本の田圃や畑のある風景を目にしても、なにやら小綺麗な住宅
に違和感ばかりがつのる。地に足の着いた暮らしが見えてこない
のだ。アフリカでは、そこが荒野であれ森であれ畑作地帯であれ、
そこに暮らしている住人と産業と暮らし向きが息吹として感じら
れるのだ。どちらが豊かであるかと言えば、私はあえてアフリカ
の方が精神的にも物質的にも豊かであると言いきる。物質的豊か
さの尺度を物質量や工業製品などの種類の豊富さに求める人には
この言い種は通じないだろう。でも物質的豊かさの尺度はそうで
はないと思っている。
よく、「途上国には物質的豊かさは無いけど精神的な豊かさが残
っている」などと言うが、それは違うと思う。豊かさとは充足で
はないだろうか。「もっと欲しい」という感覚の中で生活してい
れば充足は得られない。
しかし「足を知る」感覚では、毎日が充足感に包まれるはずだと
思う。高望みせず、しかしやることは精いっぱいやって一日を終
える。そんな毎日に感謝できれば少しは世の中変わりはしないだ
ろうか。

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